「知識人とは何か」エドワード・W・サイード著、大橋洋一訳。平凡社ライブラリー236。1998年。

「知識人とは何か」エドワード・W・サイード著、大橋洋一訳。平凡社ライブラリー236。1998年。大橋先生は、筒井康隆 『文学部唯野教授』岩波書店のモデルになった人。

知識人とは、国家とも伝統とも距離を保ち、転向者や信奉者たちのように宗教じみた熱狂で政治参加せず、アウトサイダーとして、懐疑論者として存在するもの、といった趣旨の本。

お金や地位のことで権力側に取り込まれることは情けないとサイードは語るものの、実際には、知識人とは言うものの、夏目漱石の描く高等遊民の様にはいかず、たとえば最近の総理大臣のような攻撃的で執拗な権力者に嫌われると、出世もできないし、経済的にも苦しくなる。テレビを降板させられたりする。そのあたりをどう解決するかが難しいのだが、この問題について、例として、ピアニストのグレン・グールドを挙げている。グールドは大企業レコード会社の専属レコード・アーティストとして過ごした。しかし、企業の論理に取り込まれることなく、芸術活動を行った。

グールドとか、チョムスキーとか、桁外れの人ならば、何ものからも自由に、自分の言いたいことを言うこともできるだろうが、実際にはなかなか難しいことだろうと思う。特に若い時は自分の足場を固めるためにも、ある程度世間と妥協する傾向だろうと思う。現実は厳しい。サルトルはノーベル賞さえ辞退したわけだが、偉大な人は別である。

訳者あとがきでは、1998年現在、日本はファシズム化していると語る。歴史の一時期の不幸な記憶として、また回避すべき危険な未来の可能性として、ファシズムを外部に置くのは間違いである。ファシズムがいまわたしたちを包み込んでいることを、認識すべきだ。これほどまでに多くの異議申し立てが黙殺され、専門知識を有する人が体制維持のために動員され、過去の時空間さえも改変され、もはや安全ではなくなろうとしているこの時、わたしたちに残されたのはサイード的な知識人の立場しかない。現在に歯止めをかけるために、アウトサイダーになるべきだという。

たしかに、湾岸戦争や最近のウクライナ報道を見ても、いまわたしたちは、かなり歪んだ情報空間に生きているのだと自覚せざるを得ないのではないだろうか。

全体として引用が華麗で豊富である。引用された著作を知っているなら、読んでいるときの意味の奥行きが広がるし、読んでいないなら、今後の読書の手引きとなるだろう。原注や索引を眺めてみると、素晴らしく高い水準の著作や人物が並んでいて、著者はこの範囲のものを咀嚼して自在に引用しているかと思うと、やはり「知識人」というものは片手間にはできないと知る。めまいがするようだ。また、引用されている著作の多くに日本語翻訳が出版されていることにも、先人の業績はありがたいものだと感嘆する。

翻訳の日本語としてどうかといえば、かなり確信をもって大胆に翻訳していると思われる。タイトルからして、「Representation of Intellectual」で、翻訳しにくい。Representationは、多義的であり、イメージ、表象、代弁、代理、主張、表現などを意味する。また、of については、知識人をRepresentationするという意味もあるし、知識人がRepresentationするという意味もある、というあたりを解説で説明している。

元の英語を確認していないが、たぶん、翻訳で理解する以上に理解困難だろう。翻訳はありがたい。しかし翻訳の限界もあるわけで、多義的な部分や、日本語に移しきれない部分など、きっとあるだろう。自分の経験でも、原文を読んでよくわからないと思って翻訳を参照すると、難しいところは省略していた例もあった。出版界はそんなことも平気のようである。この本についてはそんなことはないだろう。