下書き うつ病勉強会#182 神経発達障害について

発達障害と言われたもの、これからの呼び名は神経発達障害となるのだが、それがどのようなものなのか、説明したいのだが、なにしろ内容については徐々に理解されているという段階で、一般の人にわかりやすい形で伝えることも難しい。難しいことを難しいままで言っている哲学的な人もいるけれども、正直言って、何を言っているのか、よく分からず、そもそもの発想の原点を教えてもらえればもっと共感できると思うのだけれども、そのような説明もなく、困ったものだ。

個人的に思うのは、脳はもっと多様な壊れ方をするし、発達の様子も多様であることだ。脳は多様であるが、それを観察して測定して評価する人間の側が未熟で多様性に乏しいので、精神病もせいぜい何種類かしか分類されていないし、発達障害に至っては、自閉性、注意欠如多動、学習障害、その他、という具合で、いかにも観察する側の都合である。極端に言えば、社会不適応な存在、親が子育てに困る存在、学校教師が教育に困る存在、そんな側面がないだろうか。

実際の脳は、ヒトが生まれて後、どんどんシナプスを密に作り続ける。その中で、現実を体験してゆくにつれて自動的に学習し、邪魔なシナプスや、邪魔とは言えないが不必要なシナプスを選んで廃止する。結果として、生活に役に立つシナプスが残る。概略を言えばそのようなところだ。

ここでは、シナプスを増やす働きと、シナプスを減らす働きが同時並行で進行している。

たとえばシナプスを増やす傾向が強すぎて、減らす働きが弱ければ、それはそれで、平均的人間から見れば不適応である。その人の脳はある種活発なのであるが、余計なシナプスもたくさんあるので混乱している。

シナプス増の力の強弱と、減の力の強弱を考えれば、4通りのパターンがある。もちろん、その中間を考えれば、無限の移行があるので、スペクトラムという。

シナプス増・強+シナプス減・強だと、昼にたくさん経験して、夜は睡眠の中で不要なシナプスを捨てて、次の日はすっきりした脳でまた活動できる。このようなタイプが秀才のひとつのタイプだろう。

シナプス増・強+シナプス減・弱だと、たくさんのシナプスがあるが、余計なシナプスばかり多くて、実際の生活の中で短時間に有効に効率的に判断することは難しくなる。いろいろな回路があるばかりに、迷いが生じて、決められない。そんな感じがする。

シナプス増・弱+シナプス減・強だと乏しいシナプスをどんどん刈り取って減らしてしまうので、有効なものも残りにくいかもしれない。しかしそれなりにまとまった行動はできるようになるだろう。

シナプス増・弱+シナプス減・弱だと結果的には丁度良いくらいのシナプスが残るかもしれない。

大雑把な考察ではあるが、こうして考えてみると、シナプス増・強+シナプス減・強とシナプス増・弱+シナプス減・弱は、それぞれシナプスを必要な分は増やして、必要な分を捨てているので、バランスはとれている。たくさん増やしてたくさん減らす方が複雑な学習ができると思うが、少なく増やして少なく減らすのも円満で十分な脳になると思われる。人間が生存して子供を産んで育てることを考えると、それで十分なところがある。

例えていえば、きれいな円になっていて、それが大きいか小さいかだけだ。円は円でうまくまとまっている。

沢山の人間がいて、巨大な集団を形成して、その中で生きると考えると、ある程度複雑な脳のほうが適しているのだろうけれども、先進国では出生率が減少している現実を考えると、知能が高い社会はあまり幸せではなさそうだ。そう言って抵抗があるなら、幸せの内容が変化していると言えばいいのかもしれない。

子供をたくさん育てて子孫繁栄となる人たちは、知能の高い人たちのグループとは違うようで、人類の未来は、どんどん知能が高くなる方向ではなさそうだ。高知能の人は自分が社会により高いレベルで適応しようとして、子孫を残さないのだから、知能の発達は頭打ちになる。知能の高い人たちに有利な価値観は時間が経てば捨てられてゆくだろう。変なことを考えている変な人だとかで終わりになる。

シナプス増・弱+シナプス減・強と、シナプス増・強+シナプス減・弱はきれいな円にならない。シナプス増・弱+シナプス減・強の場合は必要なシナプスも捨ててしまうし、シナプス増・強+シナプス減・弱のタイプは不必要なシナプスも持ち続けて、何が大事な回路なのか分からなくなってしまう。

この二つのタイプの場合に、発達障害と呼ばれるものが含まれていると思う。

こだわりは「捨てたほうがいいものを持ち続けている」との考えがあるかもしれない。しかし、こだわりを「抑制する回路を捨ててしまった」というような、過剰に捨てた結果かもしれないので、シナプスの過剰なのか不足なのかはもっと詳しく調べないと分からない。両方の可能性があるだろう。

注意欠如についても、気が散る・興味が移るという面で考えると、興味抑制回路の一部を捨ててしまったので気が散るのかもしれないし、興味回路が過剰に残っているから余計なものに注意が行ってしまうのかもしれない。こちらも両方の可能性があるだろう。

つまり、大きな円でも小さな円でも、だいたい円に近いなら、本人も周囲の人もやっていける。それがでこぼこな形になると、本人も周囲も困ることになる。

脳の障害といってもいろいろある。脳はシナプスをたくさん形成して、その中の不必要な部分を捨てて、現実の経験を脳の中に転写していって、ついには脳内で現実の予行演習ができるようになる。アメリカは核爆発についてのたくさんのデータを持っているので、もうこれ以上核実験をしなくても、コンピュータでシミュレーションができる。しかし後発の国ではそのようなデータはないので、核実験を実際にする必要がある。それと似たような話で、データがそろえば脳内で現実のシミュレーションができる。だからたとえば、ピッチャーは自分の今日の体調を考慮して、風も考えて、どのような感じで投げれば内角高めのぎりぎりのストレートを投げられるか、シミュレーションができる。このようなシミュレーション回路がうまく働かない事態も考えられる。そのひとつとして、経験から脳内現実を作る時に、十分精密な転写をしなかった場合がある。だからそれをもとにしてシミュレーションを試みても、結果はうまくいかない。しかし脳内の小さな現実を訂正することができないので、次のシミュレーションもうまくいかない。脳内現実を形成してそれで未来をシミュレーションして生活に役立てるという話だが、これなどはぴったり100%現実を転写していることもないし、0%ということもないだろう。みんなある程度ずれているのだと思う。

このようにしてずれた人同士が、ピッチャーになりバッターになりアンパイアになっているのだから、いろいろなずれが対決するわけで、理屈通りにはいかない。

自然法則と直面するだけならば自然法則とずれのない人が成功する。しかし人間同士が対決すると、お互いの脳のずれが対決することになるのでどちらが有利になるのかは簡単に判定はできない。大久保が大魔神のフォークをホームランした時は、このようなずれがうまくはまって大久保に有利に働いたのだろう。物理的な計算から言えば空振りだったと思う。

核実験の話や野球の話で脱線したが、人間の脳は最初は小さな円で生まれ、それが時間を経て、10歳くらいでいったん完成し、そのあとで性的発達をして、子孫を生んで育てるのに適した脳が形成される。それが15、6才だろうか。二階建てになっている。最終的には円になれば、生きやすい。

脳の発達の途中でいろいろな障害が起こる。生物学的な理由もあるだろうし、心理的な理由もあるだろう。その場合、脳の成長がどのように影響を受けるか、たとえ話を考える。図を描けばわかりやすいがここではあえて言葉で説明する。

生まれた時は半径1センチの正確な円だったと仮定する。胎児期にたぶん大きな影響を受けるのでこの過程はよくないか。しかし受精した時には脳の組織は存在しないし、ゆくゆく脳になる外胚葉の組織は脳になる前にすでに環境からの影響を受ける可能性があるし、遺伝子によるなにかの不具合も多少はあるだろう。ここは表現が難しい。まあ、発生の時点では半径ゼロのまん丸と考えればよい。それが遺伝子と環境の影響を受けて、だんだん大きくなる。

例えば、1歳の時を生物学的な理由で障害が発生したとして、半径1センチの円で考えて、Y軸とぶつかる(0,1)の点に障害が発生したとする。それ以後の成長は、他の点が順調に半径2センチの円になる方向で進行するが、(0,1)の点は成長が遅くなり、他が2センチの地点に到達するときに、1.5センチまでしか行っていないとする。それが成長の凸凹になる。

全体が半径3センチに至ろうとするときに、(3,0)の点、つまりX軸と交わる点で障害が発生したとする。すると、その点はそれ以降成長が遅くなる。

このように考えると、いろいろな時点でかつ、いろいろな地点で障害が発生すれば、全体に円であることは保たれて、半径が小さくなるだろう。

また、半径3ミリくらいの時に障害が発生すれば、局所的な凸凹にはならず、全体に歪むことになるだろう。

つまり、発生初期の障害は大きいがなだらかな歪みとなり、成長の後半での障害は、表面の小さいけれどもはっきりした凸凹になるだろう。大きいがなだらかな歪みは障害とはとらえられないことが多いだろう。小さいが明白な凸凹は目立つことになるだろう。

大きくても小さくても形が円に近ければ問題はない。表面に凸凹が目立てば、それを診断する。こう考えると、診断というものがどういうものか考えてみる必要はありそうである。この診断は脳の神経細胞や脳回路について正確に語っているのではなくて、社会の中での自分や周囲の困りごとを言っているだけであるという面がある。昔は微細脳障害とか高次脳機能障害とか呼んでいたものだが、そのくらい大雑把な言葉のほうが、このような多彩なグラデーションのある状態の場合にはふさわしいような気もする。言葉があるせいで、診断する側もされる側も、納得している面がある。

原因が分からないので、原因からの診断はできない。そこで、脳の機能分野ごとに測定をして、数字にするなり、言語で描写するなりすればよいだろうとの考えもある。ディメンジョン診断であるが、脳の機能測定と言っても精密にできるわけでもないし、平均からのずれを測定するだけで、役には立つけれども、とりあえず測定できるものをいくつか並べているだけのようなところもある。

人間の脳機能を測定するとして、どのように測定すれば必要十分なのか、そんなことは分かっていない。

ピッチャーとバッターの脳がお互い独自にずれていて、それで様々な結果が出ると書いたが、診断する側も自分の脳で診断するわけで、診断される側の脳機能を見たとして、脳が脳をどれだけ理解できるものだろうか。制度に従った儀式的行為ともいえる。

親、学校の先生、職場の人、この人たちにははっきり悩みがあるが、悩んでいるのはやはりそれそれの脳であって、これもピッチャーとバッターのように、みんな少しずつずれているのである。