下書き うつ病勉強会#110 sickness behavior-3 非定型うつ病など シナプスではなくて回路が問題でしょう

内因性うつ病と’ sickness behavior ‘

‘ sickness behavior ‘として無気力,動作緩慢,食欲不振,体重減少,体温上昇,睡眠時間の延長,社会行動の減少,探索行動の減少,疾痛感受性の増大,過度の臆病さなどがあげられていた。これらはおおむね、中核的・内因性・うつ病に一致している。

しかし睡眠時間延長だけが目立って不一致である。

連想されるのは非定型うつ病である。それは内因性うつ病の場合の不眠、食欲低下、体重減少、性欲減退とは対照的に、逆の植物症状と呼ばれることがある。つまり過眠、過食、体重増、性欲増大を特徴とする。

イメージとしては、不眠を除外すれば、内因性うつ病つまり、定型うつ病では、植物症状がみられる。一方で、非定型うつ病では逆の植物状態がみられ、動物の冬眠とその準備に似ているが、性欲増大は違うような気がする。季節性感情障害、つまり冬季うつ病と言ってもよいのだが、その場合、過眠、過食、体重増加 といった典型的なうつ病とは異なる非定型な症状が多く、精神面でも「意欲低下や思考が進まない」「倦怠感がある」などの抑制症状が中心で、憂うつ感などの抑うつ症状は目立たない。睡眠時間の増加については夜の睡眠時間の延長と日中の眠気の増加が同時に起こること、食欲亢進については炭水化物に対して特徴的で、炭水化物飢餓といわれるほどである。白米やパン、パスタの他にチョコレートなどの菓子類を好み、午後から夜にかけて食欲は増強する。そのため、冬季うつ病はまるで冬眠している様子にも似ていると表現される。少ないが夏期に抑うつエピソードを毎年反復するタイプの症例もある。しかし、その症状は食欲減退や抑うつ気分が多く、通常のうつ病の症状に近い。こうした気分、睡眠、食欲などの生理機能の季節変動は一般人口においてもみられ、冬季に気分が低下することも確認されている。このような気分や生理機能の季節性変化が文化や民族を越えて存在することには、何らかの生物学的基盤が背景にあると考えられている。つまり、日照量が一番の要因と思われる。

その点では、冬季うつ病は緯度の高い地域に多いはずであり、最近の気候変動では、日本などはますます暑く雨の多い地域になっていて、日本全国が沖縄や鹿児島になったようなものだ。北海道でサツマイモが栽培できるのだから、気温の変化が分かるというものだ。それに伴い、予想としては、今まで単極性うつ病が多かったものが、これからは双極性障害が多数になってゆくのではないかと思っている。なんとなく、南国の人は陽気で夜中まで酒を飲んで元気でいるイメージがある。北国の人は陰気で夜中まで酒を飲んで不健康である。東京なども沖縄のようになって、気質も変化してゆくのだろうと予想している。みんなで歌って踊ってそれでいいじゃないかという文化になれば、病気も随分違ってくると思う。

定型うつ病で’ sickness behavior ‘がみられるとの説明はよくわかる。最近ではCOVID19感染後のブレイン・フォグや慢性疲労その他の症状は’ sickness behavior ‘が半分くらいと思われる。あとの半分は特異的な血管損傷だろう。ヒトの場合、不眠になるのは不思議であるが、前回説明したように、ヒトの場合だけ、睡眠中に毒になることが起こっていて、したがって、朝起きた時に一番気分が悪く、夕方になるにしたがって気分は回復してゆくと考えればよいだろう。不眠は症状であるだけではなく、うつ病を促進するものであり、従って昔は断眠療法などがあったのだろう。現在でも、睡眠の薬剤を上手に使って睡眠時間を確保し、その中でもレム期を抑制して夢を見ないようにしてやれば、全体として楽になるように、治療者としては感じている。この仮説だけ承知してもらえれば、定型・内因性うつ病は’ sickness behavior ‘として概ね矛盾なく理解できる。

非定型うつ病のいろいろな提案

一方で、非定型うつ病はどうだろう。1959年の論文に、抑うつ、ヒステリー、不安・恐怖を呈し、電気痙攣療法が無効で、MAOIがよく効く、機嫌が悪く、易刺激的で、過活動、攻撃的な一群の患者がいて、抑うつという点では内因性うつ病に似ているが、ほかの点では全く似ていない病像で、内因性うつ病を定型うつ病とすれば、非定型うつ病と名付けられる、と報告した。

ここを起点として、いろいろな人がいろいろな非定型うつ病概念を主張し、大変困ったというか、はっきり言って実りのない、どうでもいいような領域になっていたのであるが、DSM4の時代になって1994年、一応の輪郭が発表された。それはダメな診断基準で、あちこちから反対の声が上がり、それぞれ独自の非定型うつ病が主張された。

日本では非定型うつ病を論じる流れが一向に盛りあがらない。それは、非定型うつ病の存在の大きな根拠となった特効薬MAOIが日本では使えなかったことが一因だろう。

非定型うつ病という言葉で想像されるとおり、大きく言えばうつ病だけれども、定型うつ病とは違うもの、ということだから、主にどこが違うと主張するかによって、派閥ができる。

DSM

1994年の診断基準では、大うつ病エピソードまたは気分変調症の基準を満たしたうえで、さらに、A.気分の反応性がある、B.1.著明な体重増加または食欲の増加、2.過眠、3.鉛様の四肢麻痺、4.対人関係の拒絶に敏感、この中の2つ、C.メランコリー性と緊張病性は除外する。となった。

これに対して、MAOIのことを書くべきだ、ETCを書くべきだ、非定型うつ病ではなくて非定型双極性障害と言うべきだろう、軽症慢性の条件は必要ないのか、A.気分の反応性を必須とするのはおかしい、4.対人関係の拒絶に敏感はパーソナリティ障害と関係するのではないか、一方では『対人関係の拒絶に敏感』は不安と関係するとする人もいて、いろいろ難しい。その中で、MAOIの有効性に疑問を呈する議論が出たり、ETCが診断的に意味があるとの考えは間違いであるとの議論が出たり、これは結局うつ病のカテゴリーではなく、パーソナリティ障害や双極性障害に分類それるべきだとか議論は拡散してゆく。実験してみて決めましょうという自然科学の手続きがうまくいかない。さらにSSRIが登場して、MAOIよりもSSRIでいいじゃないかということになって、定型うつ病と非定型うつ病を分けてみて、何の利益があるか、治療はSSRIで同一ではないかというような流れにもなり、また先行き不安定になった。うつ病と診断できたら、それが定型であろうと非定型であろうと、気にしないで、マニュアルに従えばいいとの考えである。

一番最初は、神経質で性格も難しそうな人が、軽症で慢性に続く抑うつだと見えるが、不安の方が強い感じで、ここまでなら内因性うつに似ていないこともないがパニック障害のようでもあり、パーソナリティ障害のようでもある。植物症状の点で異なり、さらには、内因性うつではETCが効く人が多いのにこちらはETCが効かない。このように似ているところと、逆のところがあるという話が続いていた。似ている点は抑うつ、似ていない点はいろいろ、という結論になる。似ていない点として気分反応性、拒絶過敏性、

『気分反応性』

1994年にA.としてあげられた『気分の反応性がある』は考えてみればおかしなもので、内因性うつ病では『気分の非反応性』が条件とされていて、周りでどんな楽しいことがあっても反応せず、ずっとうつのままだというのが条件である。それはなるほど分かりやすい条件で、元気づけても励ましても酒を飲ませてもダメなわけだ。クリスマスでも誕生日でも正月でもダメだ。日曜日になっても、温泉に行っても、ダメだ。子供が大学に合格してもダメ。

一方で、『気分の反応性がある』ということはその点では正常であるということだ。《賞賛や承認のような外的な原因に大きく反応する》、《励ましに応じる、前向きな出来事にあったときに、喜びをもって反応する》。

より具体的に,〈君が『パーティに行こう』と誘っても彼らは『パーティは退屈だ』という,そこで『それは変だ,2週間前に君をパーティで見かけたが,楽しそうだったよ』と返せば,『いや違う,本当に楽しかったわけじゃない』という.でも君が彼らをパーティにひきずって行けば,彼らは楽しんでくるんだ〉との描写がある.

つまり、この『気分の反応性がある』ことは、その人が気分の反応性の点では正常であること意味している。そのことを重視する人たちがいて、これも分からないではない。しかし別の人たちによれば、これは正常であることの記述であって、正常であることは、気分非反応性を特徴とする内因性うつ病との良い対比点であるとはいうものの、これを積極的に診断の条件とすべきなのだろうかとの疑問が述べられた。

また、気分の反応性はつまり、過剰反応性を問題にしているのであって、その点を考えると性格障害と関係している項目であるとの議論もある。

このあたりについては、まず、気分反応性については正常であるとの条件は、特に問題ないと思う。そもそもうつ病の診断基準として挙げられているのは内因性・メランコリー型うつ病の特徴であって、その中に『気分反応性がない』が入っているのであるから、『気分反応性がある』ことに注意することで、その点が非定型うつ病を定型・内因性・メランコリー型うつ病から分離するポイントになるということになるという話で、これは特に問題はないだろう。

さらに、それを過剰反応性と解釈するのはやや無理があるのではないか。仮に、過剰反応性と解釈していいなら、双極性障害をも疑うことになるし、あるいは、ボーダーライン・パーソナリティ障害や演技性パーソナリティ障害も検討が必要になる。

そもそもは、うつ病の基準を満たすが、MOAIが特効薬であるという単純な観察を踏まえて、それを非定型うつ病と呼ぼうと提案した。その次には、実際にMAOIを投与しなくても、MAOIが効く症例かどうかを見分けたいという動機が生まれる。したがって、うつ病の基準を満たし、かつ『気分反応性がある』と判定されたら、MAOIを使用すべきだとの、具体的な臨床に役立つ事項として提案されたものだろう。その後は、MAOIの効果の特異性が否定されたりなどしたこともあって、気分反応性の診断的価値については疑問も出された。そんなこんながあったけれども、最終的には、うつ病にはSSRI、定型うつ病に当てはまらないものについては、MAOI、リチウム、気分安定剤、さらにはドパミンブロッカーと考えればいいだけで、現在では何も問題はないように思われる。

そもそも、気分反応性があるかどうかを判定するとして、簡単ではない。観察者の観察眼の不足もあるだろうし、ケースによっては、意識的か無意識的かは両方あると思うが、場面によって微妙に使い分ける人もいるだろう。考えてみて、気分反応性があるというのは、かなり幼稚な精神状態だろうと思われる。また、気分反応性があるのもないのも、演技的だと考えられても仕方がないだろう。だから、あまり良い鑑別点とは言えないような気がする。

気分反応性はある、なしの単純な二分法ではうまく評価ではないだろう。大体の人はグレーであって、それが大人というものである。グレーでなくて、あるかないかの、0か100かの評価になるのが正しいとは思えない。

拒絶過敏性

また、4.拒絶過敏性についても多くの議論がある。対人関係上の拒絶への敏感性とは,《早期発症(18歳まで)のパーソナリティ傾向であり,著明な機能不全の原因となる,以下の少なくともひとつを伴う:不安定な関係,臨床的に著明な不適応行動による挫折や批判への反応,そして拒絶を恐れて関係を回避する》と定義されている.このあたりはどうしたってパーソナリティ傾向の表現として理解すべきだろう。気分状態に応じて消長する他の症状と同列に並べることについては批判がある。ずっと続くから。これもうつ状態といえるのか?もう循環性とは言えないような気がする。

「批判されることへの懸念」、「他の人から自分がどう思われているか,心配である」このあたりは社交不安障害の症状に類似している。したがって、社交不安障害との鑑別診断が問題になるが、ほとんど重なっているケースもあり、逆に、ほとんど関係のないケースもある。

「社会的自己像と真の自己像の不一致」「もし他の人が本当の私を知ったら,私のことを嫌いになるだろう」と考えて、本当の自分を知られないように社会的自己として「振る舞う」。拒絶されることを避けるために周囲の人に対して本当の自分を出さないよう努め,拒絶されない自己を作り上げることで疲労し、結果としてうつ症状を高めている可能性がある。

社交不安障害患者がうつ病を併発した場合には非定型の特徴を伴うケースが多い。そういわれているものの、実際は、非定型の特徴は不安症の特徴だと主張する人もいる。なるほど、その点では不安症とも隣接しているわけだ。

昔日本で議論されていた対人恐怖症の場合は、うつ病と隣り合っているのは、思春期妄想症などのとらえ方であり、統合失調症と隣り合っていることが注目される。対人恐怖症の場合は、不安を中心にして躁うつ病と統合失調症と隣接している様子を見ているわけだが、この拒絶過敏症ではパーソナリティ障害を中心にして、不安、躁うつ病などとの関連を見ているようだ。

しかしうつ病というものはそもそもが循環性のものであって、パーソナリティ障害のような一貫して持続的な状態をうつ病と呼ぶのは無理がある。

鉛様の四肢麻痺

3.鉛様の四肢麻痺もまた面白い。腕が鉛になったようだとか腕が鉛管になったようだとか言うのであるが、私は腕が鉛になったことはないし、鉛管を担いだこともないのでどんな重さなのか、性質なのか、よくわからない。重くてだるいという意味だろうと思うが、重くてだるいと言ってくれればいいと思うのだが。日本人の比喩の体系の中で、鉛のように重いというのはどのくらい実感のある言葉なのだろう。鉛に触って持ち上げて重さを実感したことなんてないなあ。

ところが外来では珍しくない訴えである。まるで腕が鉛の管になったように重くてだるいと語る。聴く側としては、こうした実感のない言葉をどこで見つけたかと考えれば、当然DSMを勉強してきたのだろうと考える。それを今医者に向かって語っている。何のために?典型的なうつ病を印象付けようとして、定型うつ病と非定型うつ病をごちゃまぜにして覚えてきたのだろうか。だとすれば知的水準の低下が疑われる。疲れているのだろう。あるいはこのような特性のゆえに職場不適応になっているのか。

非定型は若年者に多い。年齢を経るに従い、定型性の傾向が増す。これは素直に考えれば、パーソナリティ障害が多少なりとも成熟してゆくことに対応しているのだろう。十分に成熟した人間がうつ病になると定型うつ病、内因性・メランコリー型うつ病になるのであって、未熟な性格の人間がうつ病になる時は、従来のうつ病とは違う面が見えてくる。うつ症状を中心に考えれば、うつ病の一種だと考えられるし、そうではなくて、双極性障害だとかパーソナリティ障害だとか考えたほうがよい場合もあり、ある程度の幅をもって存在しているようだ。

軽症双極性障害、冬眠

過眠,食欲増進,体重増加,性欲増進,諸症状が夕刻に悪化する日内変動などの逆植物症状と,鉛様麻痺あるいは脱力感などの症状は,軽症の双極性障害に対する関心の増加とともに,近年大きく注目を集めている.つまり、非定型うつ病は双極性障害に分類されるのではないかというのである。心理症状を別にして逆植物状態や鉛様麻痺、脱力感は、軽症双極性障害ではないかと主張される。うつ病という精神病をこうした身体症状で定義するのはおかしいと思う。過眠,食欲増進,体重増加,性欲増進などの逆植物状態や鉛様麻痺、脱力感を、軽症双極性障害の症状とみるのは、食欲増進,性欲増進は当てはまるが、それ以外は軽症双極性障害とも言えないのではないか。また、過眠は非定型の印みたいに扱われているが、実際には過眠で初診する人は多くなく、経過の中で、過眠を訴える人は少なくなく、その場合、薬剤を調整して眠気を取り除いたほうがいいのか、安静を保ち、回復プロセスを促進するために眠いままで置いた方が利益なのか、判断する必要がある。最初に不眠があって、薬剤を使い始めてしばらくして過眠がみられ、さらに体調が改善すれば、昼には図書館で過ごすなどして眠気に対処するが、ケースによって、どの時期にどのような方針が正しいかは、条件が複雑で、簡単に判断できるとは言えないと思う。

いま話に出た冬眠とうつ病の類似を考えるのは興味深い。冬眠の時に沢山食べるのか、沢山寝るのかについては、冬眠準備期間と冬眠期間に分けたほうがいい。

冬眠準備期間は動き回って餌を探してたくさん食べる。睡眠は少なくなって、体重は増加するだろう。場合によっては、仲間同士で餌を奪い合うだろう。これは行動としては躁状態である。冬眠にはいったら、消費エネルギーを少なくするためになるべく寝る、食料はないから食べない。過眠と少食の組み合わせとなり、運動が極端に減るので、うつ状態に近いと言えるだろう。過眠を除いてのうつ状態と言ってもいい。

とすると、冬眠準備と冬眠は、躁状態という火事とうつ状態という焼け跡の回復過程に少し似ている。まあ、少しだけれど。

ここでも過眠が引っかかる。

例えば、動物が、無限に餌があって、天敵もいない安全な場所に置かれたとしたらどうなるだろうか。当面は、沢山食べてたくさん寝るのではないか。そして太る。はっきり目が覚める必要もなくて、夢とうつつの間くらいでいい。餌があって天敵もいないのだから、周囲に対してわがままにふるまっても、特に損失もない。わがままを言ってみて、偶然何かの事情でわがままが通ったら幸運だというくらいに考えるのではないか。権力者に対しては忖度するのは、権力者が富の分配の権利を持っているからで、分配がなくても無限に餌があれば、権力の基盤はかなり弱くなるだろう。

無限に餌があって、天敵もいない安全な場所、危険は同類だけだがそれが最大の危険、というのは、最近の先進国の事情に似ているのではないか。どんな人の命でも大事、よほどのことがなければ死刑にはならない。他人の人権を踏みにじった人間が、刑務所の中で人権を主張する。あるいは、あまりエレガントではない方法で富と権力を手中にする。そのような場合、パーソナリティ障害の培地になってしまうのではないか。全員が多方面に偏っていき、みんなが鈍感になれば、それはそれで平衡状態となるのかもしれない。

月経前症候群

あと、月経前症候群についても、連想は広がる。排卵期に妊娠の可能性があるのだから、そのあとは、妊娠している可能性を考えて、あまり行動を広げないほうがいい、安全第一のほうがいい、そう考えると、体調もよくないし気分もよくないということは、エネルギーを蓄えて、感染症や敵から身を守る方向で役立つだろう。月経が来たら妊娠はなかったということで、また普通の生活をすればよい。月経前症候群は、妊娠に備えた行動ということで目的にかなっているのかもしれない。また、つわりも、そのような意味で目的にかなっているのだろう。それに、妊娠にともなって不調になれば、周囲の援助を引き出すことができる。

‘ sickness behavior ‘と冬眠や妊娠は違うけれども、目的にかなった合理的な適応ということもあるのだろう。それらはそれぞれの仕方ではあるが、うつ状態や躁状態に似た状態を呈する。そして少しずつ違う。

ここまで、’ sickness behavior ‘からの連想で非定型うつ病を見てきたが、そもそもうつ病に定型と非定型があるという二分法は頭が悪い。うつ病の中を、メランコリー型うつ、緊張病型うつ、食欲増加型うつ、過眠型うつ、四肢麻痺型うつ、対人関係拒絶型うつ、さらには性格反応型うつ、環境反応型うつ、疾病利得型うつ、’ sickness behavior ‘型うつ、などととまず分類すればいいだろう。

非定型とはあれだこれだと言って、『非定型』という一つの『箱』を争っているよりは、さっさと多数の『箱』を用意して、細かく分類してみて、そのうえで、どうしても、これとこれは同じもののようだとか、大体は一致するが例外もあるとか、データとして検討すればよいだろう。

同じ話がクレペリンの疾病概念についてもいえる。クレペリンの、一方は症状は統合失調症で経過は長期崩壊型、他方は、症状は躁うつ病で経過は循環型という2分法のタイプ論も無理があるので、内部モデルを現実と照合して訂正する機能が弱い病気、躁病、うつ病、精神機能長期崩壊病、循環病などと分類して、それぞれのケースの場合に、どの項目が当てはまるか当てはまらないか、検討すればよい。このようなディメンション型の考え方は、遺伝子研究の結果も踏まえて、今後有用になるだろう。

病理と局在

結局、脳のどこの場所で、何が起こって、その結果として、遺伝子がどう変化したか、神経細胞がどう変化したか、脳の部分回路(たとえば視床とか海馬とか)がどう変化したか、脳全体としてどう変化したか、それを記述しないと、全体的な解明はできないだろう。

私の考えでは、脳の機能異常が起こっているという場合、それが感染性炎症反応、自己免疫反応、外傷、血管障害、腫瘍、先天性異常、変性疾患、その他が起こっているのであって、それを病理という。どこで起こっているかといえば、遺伝子か、神経細胞か、部分回路か、脳全体か、あるいはこれらの階層の中で二つ以上なのか、ということになり、それをやや拡張した意味で局在という。病理と局在を指定すれば病気の名前が決まる。

現在、小児科や脳神経内科では遺伝子レベルの異変が引き起こす病気の発見が続いている。古くから内因性と言われてきた統合失調症と躁うつ病についても、遺伝子レベルでどのような変異があるのか、解明が期待されたが、単純な答えではなく、ますます謎が深まったという状況だと思う。統合失調症と双極性障害は近いもので、単極性うつ病はそれらとはやや違うらしいとは、どう考えたらよいのだろう。

精神分析みたいに考えてみるとして、その病理から自分を守るために、いろいろなレベルの防衛機制を発動していて、その結果として、遺伝子レベルでは統合失調症と双極性障害が近接、単極性うつ病はやや離れているという構図が、精神疾患としての症状を見ると、双極性障害と単極性うつ病は近縁で、統合失調症とは少し違う、というような話になるのであって、病気と、それに対する防衛反応を区別しないといけないので、容易ではない。

回路の異常

普通、と私は思うのだが、妄想があるとか幻聴があるとか、躁状態とかうつ状態とか、そのようなものは、回路の異常だと思うのではないか。

それなのに、シナプスだとか神経伝達物質だとかレセプターだとか言っているのは、現状で、神経回路を分析する手段がないことだけが理由だろう。その手段があれば、まず神経回路の異常がないか、研究するだろう。どの細胞とどの細胞はどのような信号をやり取りしているか、それが現在どのような不具合が起きて症状を呈しているか、それが進化の最前線であり、絶えず変化と選択を繰り返している脳に、一番起こりそうなことだ。この細胞とあの細胞は、本来つながっていないはずなのに、信号がそちらに行ってしまうので、うまくいかなくて症状を呈するとか、そのような研究が研究者が一番にしたいことだろうと思う。

環境と生体の情報のやり取りを考えると、環境情報が、生体の遺伝子レベル、細胞レベル、神経回路レベル、全体、といろいろなレベルで影響を与えているはずである。だから進化が起こる。その場合に、やはり神経回路レベルでの変化が一番起こりやすいのではないか。神経細胞という基本部品は腫瘍になることはあっても、内因性精神病という場合の内因となっているとは少し考えにくい。レゴを組み立てた時に、うまくいったか行かなかったかは、レゴのブロック一つ一つにあるわけでもないし、ブロックとブロックの結合の仕方(つまり脳でいえばシナプス)ではないだろうと思う。普通考えて、Aのブロックの次にBで、それがCとDにつながって行き、CはEにつながって行くけれども、全体として時計台の形ができるとかであって、うまくいかないのは、ブロックが悪いのではなく、ブロックの組み立て方が悪いのだろう。ということは、神経細胞でもシナプスでもなく、神経細胞のつながり方、信号の実際の進み方、が問題なのだろう。しかしその方法がまだわからない。だから、測定できる範囲のことで、シナプス部分の話になっているのだろう。暗闇で懐中電灯しかない、本当はもっと違うライトが欲しいけれど、当面は懐中電灯で照らして分かることだけを議論しようということだ。レゴのたとえでいえば、全体がどんな形になっているかではなく、ブロックとブロックの結合部分だけが議論されている。それってやっぱり変だよね。まあ、できないものはできないのだし、できるところからやるしかないのも分かる。新しい天才が登場して、神経回路分析の方法を考えだしてくれるのだろう。それまで我々凡人は的外れと知りながら論文を書くしかないのだろう。