どのように生きるか・なぜ生きるか

1.なぜ生きるか、この問いを突き詰めていけば、なぜ人間は存在するか、なぜ宇宙はあるか、なぜ意識は存在するか問いとなり、現状では答えが出ない。どのような可能性があるのかさえ、分からない。

2.では、どのように生きればよいのかという問いに変更すればどうか。
それならば、脳の特性とこの世界の特性の関係で答えが出るかもしれない。
もちろん、そんなこともすべてむなしいと言えば、そこで話は止まってしまう。しかし、意味がわからなくて、むなしくて、理由が分からないことと、その一瞬一瞬を充実して生きることとは別のことだ。理由が分からなくても、充実した時間は体験できる。

人間の脳はそのようにできているからだ。

3.小さな発見でもいい。物事の内的連関や同型性の発見でもいい、昔と同じだという驚きでもいい、予想以上の現実に驚くのもいい、生きている一瞬一瞬に出会いがあり、発見があり、反省があり、別れもあり、すべて脳には刺激となり、感動したり、新しい発想をしたりしている。

4.脳の特性として、利他行為があり、そこに人間は大きな喜びと意義を見いだす。進化論的に形成されたものであり、利他行為の存在がすべての生きる意味やどう生きるかについての理解につながるというのではない。ただ、利他行為にともなう喜びや目標達成の感覚が、長い人生の充実や、一瞬一瞬の生きることの意義につながっていると思われる。

5.人間は、この世界に一人ぼっちだとしたら、どうだろう。心理的に一人なのではなく、物理的に一人だとしたら。友人もいない。親も子もいない。ここから先に未来もない。本当に一人ぼっちの場合、生きる意味は見いだせそうにない。今日死んでも、明日死んでも、特に違いはない。自分の人生の全部を見届けてやろうという意欲はまだあるかもしれないが、たぶんせいぜいそのくらいだろう。

6.ところが、人間が二人存在すると、一人では存在しなかった「生きる意味」が生まれる。あの人のために生きよう、助けてあげたい、守りたい、喜ばせたいなどの気持ちになる。もう一人の人も同じで、自分一人で人生の意味を探していても見つからなかった、たくさんの意味が見えてくる。典型的には親子であれば、親は子の幸せのために生きたいと思うし、子は親を喜ばせたいと思う。孤独の時には存在しなかった、生きる意味が自然な形で発生している。これは不思議なことだ。0+0が0ではなくなる。奇跡である。

7.二人で存在することの延長として、人類に拡大してもいいし、過去と未来の人間との関係を考えてもよい。そのように利他行為の範囲を空間的にも時間的にも拡大してゆけるだろう。1000年後の人類の中で、私を理解してくれる人がきっといるはずだと信じて、今を生きるのも意義のあることだ。

8.時空が遠くなれば、直接の感謝はないかもしれない。直接の歓喜の表情はないかもしれない。それでも、そうしたものを空想し、想定して、自分の人生を意義あるものにすることはできる。

9.一方で、人生の意味とか意義とかを考える人間の脳の側の問題を考える。猫も犬も、単細胞生物も、生きる意義について悩んでいる様子はない。人間の脳に特有なものであり、特に高度な言語使用と関係しているものなのだろう。そうは言いながらも、そこに何か物理学の原則を超える超越的な原則を持ち出すつもりもない。人間の脳には、いろいろな喜びを感じる装置が用意されている。花を見る、運動で汗をかく、人と出会う、人に感謝される、猫をかわいがる、山の写真を撮る、音楽を聴く、魚を釣る、風に吹かれてみる。生きているその時々に、そのような色々なことを感じてゆけばよいのではないか。それは最高の体験とか極限の成功とかのことではない。普段歩いている道が、春の雨に濡れた時、私の中に小さな喜びが生じる。それで充分なのだ。その小さな喜びを大切にしても感性を落とさないようにするためにある種の芸術があり、ある種の生きる態度がある。

10.理屈抜き本当に嬉しいことや楽しいことや感激することが、人生にはある。それが本当に意味のあることなのかと問われれば、最初の問いに戻って、不可知であると答えるしかない。そうではなくて、人生の体験を構成するものとして、それらは十分なのではないか。脳の喜びの回路がそのようにできていて、そこに報酬を感じたりするだけなのであるが、脳はそれを求めている。ここは微妙なところであるが、脳がそれを求めているのではなく、そのように準備された脳が、長い年月の自然淘汰の結果として、現在存在しているというべきだ。目的論的に存在しているのではない。どのような特性のものが長い時間の後に生き残るかという問題である。生き残ったから価値があるかと言えば、それは関係がない。

11.少なくとも、我々が人生において、どのように生きるべきかと考えた時に、利他行為が人生の真実の満足を与えてくれる、そのことに大きな意味がある。現実には報われないことも多いので、全人類に拡大して補完したり、未来の人間に拡張したり、それらの延長として神との関係を考えたりする。いずれも脳の利他主義回路が作動していると思う。そんなものを作動させても無意味だとする考えもあるだろう。しかし実際にこの回路を作動させれば、脳は喜ぶのである。それなら、喜ばせたほうがいいのではないか。