下書き うつ病勉強会#157 退行期メランコリーinvolutionalmelancholia

今日の操作的診断による気分障害の範囲は非常に広く、その内容は異質な集合体といわざるをえない。

このように拡大して、いろいろなものを雑多に含むようになったのは、いろいろと問題もあるが、ここから先、どうすればよいかと言えば、まずはDSMの枠を尊重して診断して、さらに細かい診断に役立つ情報を結合させて記録しておくことなのだろう。世の中に存在するものには理由がある。

体験反応と精神病の区別をどのようにするべきか、単極性と双極性との関係をどのように理解したらよいのか、ライフ・ステージによる症候後の違いは単なる年齢修飾にすぎないのかなど、気分障害をめぐってはいくつもの重要な問題点が存在する。これらの問題を解決しない限り、気分障害の概念は妥当性を欠き、それを土台とする基礎および臨床的研究に実りある成果を期待することはできないだろう。気分障害の概念、診断基準の見直しが必要とされている。

そのうち頭のいい人がうまい解決を提案するまで、地道に細かいデータを積み上げるしかない。

Kraepelin Eがかつて提唱した退行期メランコリーに相当する病態を取り上げる。退行期メランコリーの独立性をめぐる議論は、操作的診断の登場する以前、躁うつ病あるいは中高年の精神病の主要なトピックの一つであった。退行期メランコリーinvolutional melancholiaとは、一般的には次のような特徴を有する病態として理解されている。

1退行期(中高年)に発症する、

2制止を欠き不安・焦燥が前景、

3妄想を伴う、

4病相は反復するのではなく慢性的経過をとる、

5治癒せず欠陥状態に移行する例が少なくない

――というものである。

この病態を躁うつ病に帰属させうるか否か、それが退行期メランコリーの独立性をめぐる議論であった。今日では、気分障害の範囲を著しく拡張することでこの問いを不問に付しているが、われわれの主張は、退行期メランコリーを気分障害から独立させることである。

確かに、退行期メランコリーは通常考えられている内因性うつ病とは少し違う

高齢化社会を迎え、これまでの若年発症例をモデルとして生まれたKraepelin流二大精神病体系とは位相・次元を異にした、中高年に発症する特異的な病像把握の試みが、現実的に必要となっている。事実、中高年に固有の病像を呈するケースが増加していることは臨床現場で窺うことができる。その中でも退行期メランコリーは、高齢期の精神病理を考察するに恰好の対象ではないだろうか。

高齢期でしばしば指摘される論点は、血管障害である。

歴史的背景の概要

予備知識として、Kraepelinの退行期メランコリーとDreyfus GLの報告を振り返っておく。メランコリーの概念規定とその位置づけをめぐる論争をメランコリー問題Melancholiefrageと呼ぶが、メランコリーの歴史はギリシャ時代にまでさかのぼる。その概念は、他の疾病概念の確立とともに、多くの部分が削り取られてゆく歴史を辿る。

メランコリー問題の最終的な局面が、Kraepelinの(退行期)メランコリーMelancholieであり、躁うつ病への帰属をめぐる議論であった。この概念が成立したのはKraepelinの教科書第5版(1896)のことである。Kraepelinは「あらゆる病的な、悲哀あるいは不安な気分変調をメランコリーの名の下に表示する。それは狂気の他の形式の経過の断片ではない。気分変調のほかには、妄想形成もまたメランコリーの疾患像に属するものである」と定義している。当時、彼がこの病態の独立性を支持したのは、退行期になると抑うつ性精神病の頻度が著しく高くなること、うつ病の中核症状である制止を欠くこと、妄想を伴うこと、そして予後が不良であること(完全に回復したのは3分の1しかない)、これらが主な理由であった。

確かに高齢者の抑うつは何か違うところがある。これを躁うつ病の概念の中に入れて、反復して間欠期には正常に復するとするのもかなり無理がある。

その後、Kraepelinは弟子のDreyfusに、自身がメランコリーと診断した症例の病後歴調査を命ずる。それがモノグラフとして発表されたのが1907年である。Dreyfusはまずメランコリーの状態像を文献に基づき症候学的に検討している。依拠するのは、当時版を重ねるたびに吸収拡大の一途をたどっていたKraepelinの躁うつ病概念と、メランコリーが躁うつ混合状態であることに初めて言及したThahlbitzerの論考である。

これがまたややこしい。メランコリーが躁うつ混合状態であるというような考えは多くはない。しかし理屈としては考えやすい。私は個人的にはやや賛成である。

Dreyfusは、躁うつ病症状を三群にわけて論じているが(表1)、それは抑うつとマニーに共通する症状、マニーに特徴的な症状、抑うつに特徴的な症状であり、メランコリーは抑うつとマニーの混合状態とみることができると説く。さらに精神運動制止については、部分的自覚的制止の概念を提唱することで、制止の欠如という、メランコリーを躁うつ病から区別する根拠を否定する。部分的自覚的制止とは、精神運動制止が精神活動全般に及ぶのではなく、とくに労働領域にしかも自覚的に語られるだけであることを指す。

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表1躁うつ病の症状(Dreyfus、1907)

I。抑うつとマニーに共通する症状:

1。混濁した意識、はっきりしない見当識、興奮の頂点での人物誤認、これらの不十分な記憶想起

2。妄覚、多くは錯覚の性質を持つ

3。迫害観念

II。マニーに特徴的な症状:

1。多幸感(静かな陽気から、抑制できない上機嫌まで)

2。増大した易刺激性、それは敏感から易怒性そしてひどい罵詈雑言を伴う憤激まで上昇しうる

3。転導性

4。活動心迫(高められた創造性、談話心迫)

5。高揚した自己感情(支配欲、わがまま勝手)

6。思考過程の内的統一性の不足(脈絡喪失、思考不穏、観念奔逸)

7。注意と精神的活動性の増大

8。悲哀感情から多幸感への急速で短時間の転換

9。妄想観念(誇大観念、嫉妬妄想など)

III。抑うつに特徴的な症状:

1。悲哀気分、それは不安および絶望感爆発へと増大しうる

2。抑うつ観念圏(知覚の誤り、心気的および不安性の憂慮、自己非難、罪責の意味での妄想観念、あらゆる種類の空想的に不安な表象など)

3。強迫観念

4。多幸感から悲哀気分への急速で短時間の転換

5。精神運動制止:

A。自覚的制止

a)あらゆる知的機能の減退感(知識、記憶の喪失、注意散漫など)

b)思考と理解の困難感

c)情緒的な反応しやすさの減退感(なんらかの感情の不能、内面的な荒廃と孤立など)

d)意志および意志行為の制止感(行動の障害、活動力の不足、労働不能、なんらかの行為へと奮起できないことなど)

e)決断不能

f)眠気と疲労感

B。客観的制止

a)主観的な気持ちが客観的に確認できる

b)表情の動きの硬さ

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この部分的自覚的制止と混合状態を軸にDreyfusの導きだした結論はメランコリーで観察されるあらゆる症状は、躁うつ病症状として理論的に説明することができるというものである。そして、「メランコリーが実際に躁うつ病に属するならば、予後は必ず良好でなければならない」という。より正確に表現するならば、「メランコリーの予後は躁うつ病と同様である」ということになる。

さて、その当時、躁うつ病症例の予後が絶対的に良好だったかといえば、必ずしもそうではなかった。とくにそれが退行期であった場合、躁うつ病の予後は、不安性興奮による心臓死、長い罹病期間中の身体合併症、そして躁うつ病と動脈硬化との密接な(他の精神病よりも高頻度で合併する)関係といった躁うつ病以外の三つ要因により、その転帰が影響を受け不良に転ずるという。Dreyfusはとくに第三の要因、動脈硬化との密接な関係を重視しており、これにより躁うつ病の病像がかき消されてしまい不良な転帰をとると述べている。この密接な関係については、それ以上の説明は記されておらず、当時は既成事実とみなされていたようである。躁うつ病の予後不良例は動脈硬化の合併と一義的に解釈されていた可能性が高い。

実際にたぶん、その見方でよかったのではないかと思う。

躁うつ病の予後は良好であるという大前提があり、不良な転帰をとる場合は老化性の動脈硬化と結びつけて考えるという二元論的思考である。すでに存在する気分障害に動脈硬化が合併しやすいという事実は、今日確定はされていない。

確定されてはいないが、生活習慣病や血管損傷、血糖値、血圧、肥満などと関連していろいろとデータがあるので、昔の感覚で精神病を考えていると、それはずいぶん違った景色である。

Dreyfusによるメランコリー症例の予後判定は、「回復している」「回復途上にある」「病気である」「治癒しない精神薄弱」の四つに分類されている。問題となるのは「回復途上にある」という評価である。これは「限りなく長期にわたって、見通すことができる治癒に向かって進行中」であり、「患者が生きて迎えることができれば到達する」ものなのである。それを「回復途上」と表現し、症状が慢性的に持続していても、それが躁うつ病症状の枠内にある限り、必ず回復すると断定している。そしてこの枠外からはずれた症状、とくに認知機能の低下や欠陥状態に陥れば、それは動脈硬化によるものという説明が用意されている。この「回復途上にある」群は、たとえその症状が十年以上改善しなくとも予後良好なのである。

「回復している」と判定されたグループにも問題がある。Dreyfusは、Kraepelinが「変わり者、了見が狭く不安な性質、くよくよと思い悩む傾向」と評したメランコリーを経過した患者の性格変化を、罹患によるものではなく、病前から精神病質であったのだろうと推測している。そのような例は「回復している」と判定されているのではなかろうか。Dreyfusによるメランコリーの予後判定は「メランコリーは躁うつ病の一状態像である」という考えがすでに前提となっている循環論証なのである。

Dreyfusは、メランコリーの予後は、躁うつ病と同じく良好であることが証明されたという。さらに病後歴調査で明らかになったこととして、病相は一回ではなく、多くの症例で不全発作が、ときには軽躁が観察されたという。部分的自覚的制止も実際の症例に即して記述されている。そしてメランコリーの状態像はやはり躁うつ病の特殊な混合状態にすぎないという結論に達している。

このモノグラフはたいへんな労作ではあるが、循環論証的論理展開、誤った先入観に基づいている予後判定、十分とは言い難い躁病性要素の解釈、異論のある部分的自覚的制止概念、混合状態の拡大解釈、副次的現象としか見なされていない妄想、といったいくつもの問題点を見出すことができる。

KraepelinはDreyfusの結果を受け、教科書第8版(1910)でメランコリーを躁うつ病に統合し、ここに疾患単位としてのメランコリーは消滅する。ちなみに、Kraepelin-Dreyfusの主張は、今日のAkiskalらのBipolarspectrumと共通する部分が少なくないことも指摘しておこう。

Dreyfusの報告は少し変な感じがするけれども、クレペリン先生のお墨付きだ。細かく考えればいろいろと理由もあるものなのだろう。しかし現状で、Dreyfusの話をこれ以上展開しても仕方がないような気もする。

退行期メランコリーは今日の操作的診断基準では、「精神病症状を伴う重症うつ病エピソード」(ICD-10、F32.3)あるいは「精神病性特徴を伴う大うつ病性障害」(DSM-IV、296.24)にコードされる気分障害の一亜型として位置づけられている。

何と言っても妄想を伴うことは一大特色だ。老年期になると、内因性のプロセスは、何か周囲のものを巻き込んで発展するのではないか。

精神病性うつ病psychotic depressionまたは妄想性うつ病delusional depressionの慣用病名も知られているが、これらはいずれもその妄想部分は付記や形容詞程度の重要性しか与えられておらず、付随的事象として扱われていることは命名からして明らかである。はたして微小妄想は、抑うつ気分から導かれる二次的症状にすぎないのだろうか。

われわれの主張は次の通りである。Kraepelinが教科書第5版で取り上げた退行期メランコリーは、あらためて気分障害から切り離して取り扱う必要があり、そうすることにより今日でも有用な概念となるだろう。その有用性を従来とは少し違った側面から、微小妄想を中心に、主観的体験と病に対する態度がどのように通常のうつ病と違うのかを明らかにする。

症例呈示

われわれはこの退行期メランコリーに相当する入院症例を20例以上経験しているが、ここでは典型的な症例を2例呈示する。症例呈示にあたっては、プライバシーに配慮し一部改変してある。

症例1。62歳男性

【主訴】自分は死ぬしかないと思う(自殺企図)

【生活歴】元高級官僚。X-4年に退官し外部団体理事長になる。アウトドア派で人から相談を受けることが多く、周囲からの信頼も厚い。メラコリー親和型や執着気質と呼ぶほどの特徴はなく、バランスのとれた性格である。

【既往歴】特記すべきものなし。

【家族歴】妻と二人暮らし。息子二人は独立。兄が統合失調症。

【現病歴】これまで明らかな気分変調なし、精科受診歴もない。家人によれば、X年10月中旬頃より休みの日に自宅にいることが多く、友人からの誘いを断ることがあった。X年10月下旬の座談会の司会をすることになっていたが、その1週ほど前より下調べの内容があまり頭に入らないと言っていた。座談会終了後「自分が司会をして会がつまらなくなった、滅茶苦茶になった」と思った(周囲から見ればとりたてて失敗はない)。それ以後もそのことが気になり「ああすべきだった、こうすべきだった」とこぼしていた。食欲が落ちあまり眠れていない様子だった。座談会の「失敗」で頭がいっぱいになり、職場に出ることが不安になり、11月上旬から仕事を休む。周囲からの勧めでただちにA病院受診。抑うつ状態と診断され入院を勧められたが本人は受け入れず、パロキセチン20mgを処方され外来通院することになった。

しかし、服薬は拒みがちだった。食欲は少し出たが不安感は変わらなかった。11月のある朝、自殺するつもりで家族に何も告げず家を出た。電車や車に飛び込もうとする、入水自殺を試みるがいずれ未遂に終わった。彷徨っている間に、「警察がいろんなところで見張っている。自分のことをわかっているのに泳がせていると感じていた」という。また、この途中で公園のベンチに座っていると、「とても美しい月をみた」という。結局翌朝に自宅に戻ったが、帰宅したときも「警察に追われている。家にも警察がいるに違いない。大変なことをしてしまった」「仕事の責任をとるには死ぬしかないと思った」と取り乱した状態であった。入院することを説き伏せられ、即日入院となった。

【入院後経過】入院翌日、焦燥感強く病室の入口に立ち尽くし、ベッドに横になることを勧めても応じようとしない。手をもんだり、こめかみに手をやったり苦悶様でこちらの質問に満足に答えることもできない。「国民に申し訳ない、責任をとらなければいけない」「もうだめなんです」「永遠に続くんです」と断片的に語る。頭を抱え込んで「役所全体がだめになる。私が行ってももう手遅れです」と語り、点滴(クロミプラミン、ハロペリドール)をしようとしても「植物人間になってしまった。もう何をやってもだめなんです」と拒否する。自殺の危険性を考え、身体拘束を施行する。「もうだめなんです」を繰り返す。切迫した自殺念慮があるため、入院5日目より、修正型電気けいれん療法(以下:mECT)開始。3回終了したころから「悪いことばっかり考えることはなくなってきた」と症状は改善し始め、合計5回施行で寛解状態に移行した。入院前の状態を振り返り、「座談会での失敗は取り返しのつかないことではないし、どうして自分が死のうと思ったのかわからない」という。入院約1ヶ月間で退院。退院翌日より職場に復帰。ミルナシプランを処方、外来で維持治療。完全寛解が維持されたので、本人の希望があり約半年間で通院終了とした。

【その後の経過】X+2年5月、別の外郭団体の理事長の就任が決まった頃から、具合が悪くなったと妻とともに再初診。「以前のように自殺を考えるわけではないが、理事長は引き受けるんじゃなかった、とてもやっていける自信がない」「あのときの始まりの感じと似ていたので早めに病院に来た」という。一見、病識はありそうだが、「自分には能力がない、自分の何かに問題がある」という主張は頑として譲らない。職の責任は以前と比べればはるかに軽く、不安や自信のなさは状況とは不釣合いであった。一日のうちでこの不安に駆られていない時間もあり、束の間だが趣味に時間を費やし散歩もできる、しかし不安が襲ってくるとどうにもいたたまれなくなるという。ミルナシプラン90mg投与で現在は著しい不安はなくなり、週一回職場にも出ているが、まだ完全に仕事に対して意欲的になっているわけではないという。

症例2。69歳女性

【主訴】生きていたくない(自殺企図)

【家族歴、生活歴】5人同胞の第1子長女。生来健康。女子高校を卒業後、事務職として勤務。24歳で会社員だった夫と結婚し、以来専業主婦。3人の子供がいる。元々の性格は、素直、対人関係は控えめである。

【現病歴】X-7年、夫に大腸癌が見つかったが、すでに末期癌であることが判明。夫は入退院を繰り返した後、患者が自宅で看病していた。夫がX-3年11月に亡くなり、その後は単身生活となった。正確な時期は不明だが、しばらくたってから、「夫に申し訳ない事をした」と娘にこぼすようになった。気分の落ち込みを強く感じることはなかったものの不安感があったという。X-1年11月、近所の知人に勧められ、近くの精神科クリニックを受診し、抗うつ薬や抗不安薬を処方された。その後、半年ほど通院し薬物療法を受けたが改善はあまり見られなかった。家族によるとX年3月から「淋しい、眠れない」と繰り返すようになっていた。X年5月某日、自宅浴室で包丁を使用して、左上腕数箇所を切り自殺を図った。娘に発見され当院救命センターに搬送された。来院時は出血性ショックの状態で、傷は深く骨まで達し、橈骨動脈や腱の断裂が確認された。「痛みは感じなかった」という。入院翌日、精神科に転科。

【入院時現症】医師の前では不安を押し隠すような笑顔を見せるが、涙を流すこともある。どこか落ち着きはなく、そわそわとしていた。服装・頭髪は整い、話し方は滑らかではあるが、心のうちを積極的には語ろうとせず、次のように訴えるだけである。「私が、夫を殺してしまったようなです。主人が退院したいと言ったのを私が止めなかったから、早く死んでしまった。私みたいな女は、優しくされる必要はない。もう生きていたって仕方ありません。嘘で塗り固めた人生を送って来ました。お金だって全然ない。だから早く帰らないといけません。入院なんかとんでもないです。お金が払えません」。抑うつ気分はないという。入眠困難と中途覚醒がある。

【経過】抗うつ薬を投与するが効果なく、「もう駄目。世界中で私が一番悪いんです。私の中に悪魔がいます」「入院費の請求が何百万、何千万と来てそれを払うだけのお金がありません。息子や娘のことを本当は守ってやらなきゃいけないのに大きな声で悪口を言ってしまって、とうとうマスコミにまで漏れてしまって2、3日のうちにきっと大きく発表されるんじゃないか、と思います」「足がしびれる。歩けなくなりました。薬を飲むと尿が出なくなる。目が見えなくなる。このままでは失明してしまう」。不安焦燥は改善せず、一方的に話をし、こちらが諭すような言葉をかけても応じない。まもなく、「もう何もできません。動けません」と亜昏迷状態となり疎通が取れなくなった。mECT開始。数回の施行で、妄想的言辞はなくなり焦燥も消失した。6回終了後、急性胆のう炎を併発し40°Cの発熱、その時点でmECTは終了。急性胆のう炎の治療を行うとともに、精神状態もさらに改善した。当初の症状は消失し、12月に妹夫婦のいる東北へ退院となった。

いずれの症例も今日の診断基準では、「精神病症状を伴ううつ病」と診断されるだろう。不安が前景にあり、罪業・心気・貧困をテーマとする微小妄想があり、自殺未遂で入院となっている。そしてmECTが奏功した経過をたどっている。このような症例は決して珍しくはない、妄想性うつ病として多くの臨床家が経験しているものである。

われわれが提起している問題点は、退行期メランコリーははたして本当に気分障害なのだろうかということである。以下に、この病態について精神病理学的な検討を加える。症候学的な特徴、経過と転帰、疾病分類学的位置づけ、臨床的有用性、鑑別類型学について順に論ずる。

われわれはこれらの症例を、患者の主観的体験により重きを置いて観察する。不安・焦燥を単に表出徴候として読み取るのではなく、あくまで彼らが何を体験しているかを重視する。気分や感情という大きな要素から大雑把にとらえるのではなく、全体像を見失わないようにしつつ細部までよく観察する。拠り所としているのは、Jaspers K、Schneider K、そしてHuber Gへと継承されているハイデルベルク学派の古典的記述精神病理学である。

結論から先に述べると、メランコリーの中核症状は否定的自己価値感情verneinende Selbstwertgefuehlの高まり、Schneiderのいう原不安(根源不安)Urangstの露呈、そして特徴的な自閉思考である。

Schneiderは、感情を「直接に体験される自我の性質ないし自我の状態」と定義するが、欲動や志向、さらには多くの感覚もまた含めて考える必要があるという。ここにはまず、状態性である一群の感覚があり、これを生気・器官・一般感覚あるいは生気的身体感覚vitale Leibempfindungenと呼ぶ。これらの生気感覚のうち、快・不快の方向性を持つものを身体感情Leibgefuehleと呼ぶが、不快な身体感情はうつ病の主要症状である。体が重い、不快なけだるさ、身体的不愉快、原因のはっきりしない疼痛、緊張、落ち着かない感じ、食欲低下、吐き気、身体的むかつき、不眠、不快な眠気、性欲低下など、枚挙にいとまがないが、これらはいずれも身体的不調として体験される。身体内部や表面に限局する身体感情に対して、心的感情seelische Gefuehleを区別する。心的感情は身体に体験されるものではなく、まさに自我内部の体験であり、多くは動機づけられた反応性のものである。つまり、何かについての喜び、何かを前にしての恐怖、何かのための後悔である。心的感情は表2のように分類される。このように考えると感情症状をまったく含まない精神障害はほとんどない。

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表2心的感情のグループ分け(Schneider:感情と欲動の病態心理学概説。)

A。状態感情Zustandsgefuehle:

a)快angenehme:喜び、安楽、軽快、幸福、歓喜、平静、満足、自信

b)不快unangenehme:悲哀、憂い、不安、恐怖、不愉快、不気味さ、落胆、郷愁、絶望、戦慄、驚愕、立腹、憤怒、激怒、羨望、嫉妬、退屈

B。価値感情Wertgefuehle:

1。自己価値感情Selbstwertgefuehle:

a)肯定的bejahende:力、誇り、虚栄心、自己感情、優越心、反抗心

b)否定的verneinende:恥、罪悪、後悔

2。他者価値感情Fremdwertgefuehle:

a)肯定的bejahende:愛、愛情、信頼、同情、尊敬、関心、同意、感謝、畏敬、賞賛

b)否定的verneinende:憎悪、嫌悪、不信、軽蔑、敵意、嘲笑、不同意、憤慨

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Jaspersは、人の意識の流れを「分かつことのできない巨大なひとつの流れ」と表現したが、われわれは精神病理学の方法論として、意識をいくつかの精神機能(要素)に分割し記述をしている。そのようにして取り出された感情という「要素」も、その実像はSchneiderの記載のように、決して独立しているのではなく感覚や欲動、思考といった様々な精神活動と連動し作用している。

これらを機械論的に、あたかも独立して変動するものである(混合状態の解釈)と考えるべきではない。また、当然のことながら、これらの領域に含まれる症状があるというだけで気分障害と呼ぶべきでもない。これらの感情のどの領域(群)に一次性症状が出現しているのかを考えてみるのがよいだろう。うつ病患者に共通して体験される一次性の感情症状は、まずは不快な身体感情があり、さらに悲哀、憂い、といった不快な状態感情が特徴的である

一方、メランコリーに特徴的なのは恥、罪悪感情、後悔といった否定的自己価値感情が一次性に出現することであり、状態感情領域ではもっぱら不安あるいは絶望が前景に現れることである。ここに不安と等価な身体感情症状が病像に加わっている。

うつ病とメランコリーが違うという言明自体がまず受け入れに抵抗を感じる。しかしこの違いがポイントである。

うつ病患者の悲観的思考は、患者を支配する抑うつ気分が投射された了解可能な優格観念あるいは妄想様観念にとどまることが多い。一方、メランコリーで生ずる微小妄想は、うつ病者すべてに共通する症状ではなく、出現する患者とそうでない患者がいることは多くの臨床家が気づいている。その体験内容は、抑うつ気分からの了解可能性からは明らかに逸脱しており、上記の妄想様観念とこの微小妄想とを単純に「気分に調和する妄想」mood congruent delusionとまとめるべきではない。Schneiderを引用する。

我々は、これらの不安はけっして積極的、生産的な精神病の症状ではなくて、ここではただ人間の根源的な不安が、精神病によって曝露されるだけである、という意見である。心についての不安、身体についての不安、生活必需についての不安は、人間としての心配である。それらは人間の脅威、不確実さ、頼りなさを根本的に特徴付けるものであるが、「正常の場合には」見られないか、ほんの稀にしか姿を現さないものである。・・・・・・・しかし、循環病性抑うつ状態となると、そのような根源不安が、異常に明瞭に切実に姿を現している。だからこの場合に他の不安ではなく、まさしくこの不安が、決まりきったように人を苦しめるということは、「偶然」ではなくて、人間存在に深く根ざしているのである。したがって任意の主題が心配の対象になるのではなくて、まさに例の原不安、すなわち、心、身体、家計についての心配が好んで人を悩ますのである。これらの症状が存在するのは、それが予め精神病者に人間の超個人的特徴として、与えられているために他ならない。それらが単に曝露され、被いをとられるだけのことなのである。

(SchneiderK:妄想について。今日の精神医学。文光堂)

この原不安の露呈とともに体験構造に特徴的な変化が生ずる。それは、広く自閉思考の範疇に属するが、Kranz Hは「世界を最初から排除してしまった自我の内的空間へのとらわれ」と表現している。世界はそのつどの現実の体験から全面的に排除され、体験は絶望的に自らの自我へと投げ戻されてしまうという。外界からの説得や慰めは、決して彼らの心の内には届かない。微小妄想の訂不能性はこの体験構造の変化によるところが大きい。Kranz Hはうつ病性自閉depressiver Autismusとして論じているが、この自閉は通常のうつ病では生ずることはない、メランコリーの大きな特徴である。

このような議論が進行するので、DSMの指導者たちは、これらを排除している。

さらにこの体験構造の変化は単純なとらわれにとどまらない。世界が排除されているために、心は原不安で充満しそれを解消することができない。そして自己価値、身体と自己との関係、外界と自己との関係、これらの領域の少なくとも一つに特徴的な認知の変化が生ずる、それが微小妄想である。順に描写してみよう。

否定的自己価値感情が高まると、自己の存在は「無価値」で「無力」なものとして体験される。自我の及ぶ営為はすべてが「無駄」や「過ち」に思われる。そのようなまなざしで過去を振り返ると、「取り返しのつかない過ち」が次から次へと浮かんでくる。今こうしている現在は「どうすることもできない」あるいは「さらなる過ちを重ねている」のであり、未来を思い浮かべれば「絶望」や「手遅れ」でしかない。「自分はなすべきこともできない、自堕落で、まわりに迷惑をかけているだけの人間」という罪業妄想が結実する。

自己の身体は、生命を体感する場であるだけでなく、自我が外界に向けて自己実現を企てる土台であり、その意味では自我と外界との架け橋でもある。その自己身体は「生命力を失ったもの」(癌や認知症のような不治の病に罹っているという心気妄想の形をとる場合もある)に変わり果て、外界との架け橋であった自己身体と自我の間には越えることのできない深い溝が生じているように感じられる。Cotard症候群にみられる否定妄想(臓器の喪失、死ぬことのできない未来永劫の苦しみ)や痛覚消失はその究極の到達点で、自らは身体(生命)を失い、自我の内的空間だけが残される、いわば精神的存在に化すのではないだろうか。身体を失った患者は、未来永劫死ぬこともできずに原不安に苦しみぬくことになる。

外界は自我との有機的なつながりが失われていなければ「脅威」や「負い目のあるもの」として体験され、罪業妄想を背景にした被害妄想が生ずることはよく知られている。自己身体が「生命を失ったもの」と体験されるようになると、外界もまた「自己とは無縁なもの」へと変化し、やがて世界の存在そのものの否定へとたどり着く。

「世界を最初から排除してしまった自我の内的空間へのとらわれ」の体験構造が成立すると、排除された世界の替わりに、自我の内的空間におびただしい夢幻様体験が出現することがある。幻視なのか仮性幻覚なのか、患者の目前には意識内容を投影したような世界が展開する。感覚性は明瞭で強い印象体験として細部までよく記憶しているので、せん妄というよりは夢幻様体験とみるべきだろう。多くは恐怖や不安に彩られているが、必ずしもそうでないこともあり、悪夢に混じって至福の体験をするものもいる。症例1の「美しい月を見た」という体験は、そのような夢幻様体験をものかもしれない。この自閉思考ができあがると、必然的に外界への注意や関心は著しく低下する。とくに初期病像よりも慢性化した症例では、外界に対して著しく無関心であるようにみえる。自我内界へのとらわれがあるので、知的機能検査の結果は見かけ上ひどく悪いものになる。このような認知機能低下は脳器質性病変の存在、ひいては初期認知症に結び付けられがちだか、これは短絡的な誤りである。自閉思考が存在するだけで、要素的な認知機能に問題がなくとも、テストの結果が悪くなるのは不思議ではない。そのような場合には、偽認知症pseudodementiaをまず念頭に置くべきである。

退行期メランコリーの妄想について、説明し、できれば少しでも了解したいとする試みであるが、これで説明できているのかどうか、判断が難しい。

気分と欲動は原不安と連動する。多くは焦燥感を伴うが、よく問診をしてみればこれが一次性に生じた気分だけの変化ではなく、原不安の露呈に連動していることがわかる。露呈の程度は一貫しているとは限らず、症例1のように束の間の安らぎが訪れることすらある。Kraepelinが指摘しているように、精神運動制止は一貫して認められない。この外見上の焦燥を躁うつ混合状態とみなすべきではない。混合状態の拡大解釈はいたずらに気分障害の疾病範囲を拡大し混乱を招くだけである。繰り返しになるが、メランコリーにみられる焦燥は原不安と常に連動しており、単純な気分欲動の障害と解釈すべきではない。

混合状態の定義による。最近はもっと混合状態を積極的に認定したほうがよいとの意見も強い。それが混乱を招いているのも事実だろう。しかし混合状態を積極的に認定することによって説明がしやすくなる部分もあるので、どちらともいえない。

いくつかの身体症状を付け加えておく。通常、食欲低下、睡眠障害、体重減少は必発する。強い不安は、胸腹部の圧迫感や違和感として限局することもしばしば観察される。

全体像の特徴として忘れてはならないものに病識欠如がある。うつ病患者は、通常、自らの具合の悪さをよく自覚している。制止主体のうつ病患者で初期に病識のない患者も確かに存在するが、その場合でも自分のどこかがおかしいという病感を失うことはない。精神生活の気分・欲動のとくに状態感情領域に比較的限局した変調であるからこそ、患者自身がそれを認識することができるのだろう。外見からはずいぶんと抑うつ症状が改善したように見えても、患者自身の改善度の自己評価は意外なほど低いことがよくある。抑うつ病相から完全に回復するまで患者の病感・病識は保たれる。

一方、メランコリーではほとんどの例で病識が失われていることは注目に値する。これは前述の体験構造の変化と無関係ではない、病識を得るためには、不調を自覚するだけでは不十分であり、それを客観視できる視座を持たなければならない。メランコリーは部分的な変化ではなく、人格全体を包括する変化であり、そのような視座は特徴的な体験構造の変化が生ずるとたちまち失われてしまうのである。

この病識欠如は患者を匿病 Dissimulation へと導く。匿病はこの病に対する患者の特徴的な態度である。臨床医は、メランコリー患者が「存在しない精神的健康を偽装すること」(Hoche、1901)があることを、肝に銘じておかなければならない。彼らは精神内界を語ろうとすることを恐れる。それが周囲に知られることを恐れる。自殺念慮があることを悟られまいとする。忌み嫌うべき存在としての自分は、自分とかかわる人に迷惑をかけると信じていることもある。そうなると不安は表出徴候として読み取るしかない。「大丈ですよ」と笑みを浮かべる患者もいるが、患者の目を見れば心から笑っているのではないことがわかる。

匿病 Dissimulationに関しての記述はやや珍しいと思うが、「存在しない精神的健康を偽装すること」ではなくて「存在する精神的健康をないかのように偽装すること」だと思うがどうだろうか。

脳は色々な壊れ方をして色々な症状を呈するはずだから、多分、このような見方もできるのだろう。この角度から見える景色に慣れているかどうかというだけだと思う。このような、別の見方もできるけれども、従来の見方と並列的というのでは、パラダイムチェンジにならない。

原不安の露呈はただちに自殺念慮生成へとつながり、ここに病識欠如と匿病が加わることで、見過ごされた場合には悲惨な結末が待っている。彼らは縊首や飛び降り、飛込みなど確実な方法を選択することが多い。メランコリー患者の自殺既遂率は著しく高いはずである。Kraepelinはメランコリー患者の退院についてはことに慎重でなければならないと、すでに当時から自殺への著しい危険について警告している。周囲はこの匿病はなんとしても見抜かなければならない。メランコリーは時間をかけてゆっくりと治療するものではない。医師は早急に対処し、自殺企図に対して十分に警戒しなければならない。

高齢者の場合、神経細胞と神経回路の修復システムの弱体化が問題になるのかもしれない。修復システムにエラーが出るから悪性腫瘍になる。しかしそれをさらに訂正できるから、腫瘍が治ったりする。自殺という現象はやはり何か特殊なものだ。哺乳類などを観察してみて、自殺等価行動があるものかどうか。生きることに消極的になることと、積極的に死を求めることは少し違うように思う。

経過と転帰

有効な治療法のない時代のKraepelinの観察は、メランコリーの自然経過を知る上で興味深い。Kraepelinによれば、メランコリーの転帰は不確定である。Dreyfusは、数年ときには十年以上の長期経過のうちに症状は改善し治癒に向かうと述べたが、その予後判定の問題については前述したとおりである。

今日のメランコリーの転帰は、有効な治療(修正型電気けいれん療法)の出現により大幅に改善されていると言ってよいだろう。しかしそれは、治療が開始された例についてのことである。症候学的特徴でも述べたように、匿病傾向があるために医療機関を受診しようとしない例が存在する。さらには医療機関を受診する前に自殺を遂げてしまうケースがあるはずである。

Kraepelinが指摘した病相の一回性、慢性的経過という特徴もまた、今日ではそのままあてはめることはできない。治療により症状が改善する例が増えるとともに、再発例の数も増えている。再発例は、否定的自己価値感情の高まりで始まることが多く、この症状が他の症状から導かれるのではなく、一次性に出現するものであることが確認できる。再発例もまた同様の構造をもっており、その意味でもやはり一つの臨床類型としてまとめられるのではないかと思う。

メランコリーの長期予後は、今日もまた不確定であり、多数症例を集めての検討が必要であろう。印象の域を出ないが、確実な回復への指標としては、原不安の消失、病識の出現、あるいは病勢期の体験を疎隔化できること、外界への自然な興味・関心の復活が挙げられる。治療に反応しない例があり、経過が慢性化する予後不良例も確かに存在する。その中には、自我の内的空間へのとらわれから抜け出すことができずに、心的エネルギーが著しく減弱し、仮性認知症化する例がある。あたかも枯れ木のようにやせ細り、ぽつりぽつりとしか喋らなくなってしまう。予後・転帰については、完全寛解は存在するが、多様な転帰をたどる点では統合失調症モデルで考える必要があるだろう。

治療非反応例、慢性化・予後不良例について、神経細胞と神経回路の言葉で記述することが目標になる。

階層原則に基づく疾病分類学的位置づけ

精神障害の分類を考える際に、病気の種と類型を区別することと、それらの関係を層の規則Schichtregelまたは階層原則Hierarchieregelnに照らし合わせて整理することがとりわけ重要である。層の規則はJaspersが提唱した精神疾病分類の大原則でありSchneiderを経て、現在(Huber G)にまで脈々と継承されている。ちなみに今日のICDとDSMは病気の種と類型を区別せず、階層原則もJaspersのようには採用していない。昨今、これらの診断基準の妥当性が問題となっているが、このような根本的原則に準拠していないこともその一因ではなかろうか。

もっとも、この階層原則そのものも様々な診断法の一つに過ぎず、この原則に絶対的な正当性があるわけではない。これに対する反論や別の原則を主張することもできるが、われわれはこの原則を遵守する立場をとりたい。

病気の種と類型の区別、階層原則は、われわれの提唱するメランコリー概念の意義・有用性を理解するために欠くことのできない前提である。以下に説明を加える(表3)。

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表 3 病気の種と類型、階層原則

注 1:第 1層と第 2層以下は、心的生活発展の意味連続性の中断によって区別される

注 2:第 2層と第 3層は症候学および経過の特徴により区別される

注 3:第 4層は身体的原因が明らかになることによってのみ区別される

注 4:より深い層の障害は、それより浅い層の症状が出現してもよい

注 5:診断は障害の到達した最も深い層により決定される

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精神障害は、大別すると、障害の到達する深度の浅い順に、精神病質-神経症性、躁うつ病性、統合失調症性、精神器質性の四層に分類することができる。最も深い層が、精神器質性(器質性、症状性、中毒性)であり、ここに含まれる症候学には、急性の意識混濁と慢性の人格解体と認知症があり、これらの間には亜急性の病像として多様な通過症候群Durchgangssyndromが拡がっている。本当の意味での精神病の「診断」――診断とは病気の種を同定する、病気の身体的原因を明らかにすることである――が可能なのはこの一群だけであり、病気の種が存在するのもこの層だけである。この層は、身体的単位、狭義の疾患単位を構成する一群である。

これより浅い層には、病気の種は存在せず、単に類型だけが提唱されているにすぎず、層が浅くなればなるほど「診断」の価値は小さくなる。内因精神病群として知られる二つの層は、症候学と経過によって規定される。いずれの層も身体的原因が見つかっていない点で、精神器質性と区別され、心的生活発展の意味連続性の中断を生ずる点で精神病質-神経症性と区別される。統合失調症性の層は、一級症状に代表される特徴的な病的体験やその他の精神病症状と純粋欠陥、パーソナリティの構造変形をもたらす。

躁うつ病性の層は、気分と欲動に比較的限局した症状で病相性の経過を示し、症状が軽くなれば健常との境界もはっきりしない。統合失調症性と躁うつ病性の違いは類型学でしかないとされるが、症状の特異性という観点からは統合失調症性の方がより深い。躁うつ病性の層で表れる個々の症状は、横断面で見たときには、それより浅い層で生ずる体験反応と質的に区別することができない。両者を区別するのは、了解可能性、心的生活発展の意味連続性の中断の有無という観点しかない。

もっとも浅い精神病質-神経症性の層は、パーソナリティ障害や異常体験反応などを含む人間の性状の変異を意味している。この層では心的生活発展の意味連続性の中断が生じない点で、内因性精神病の層とは区別され、身体的原因も見つからない。これら4つのグループの関係は、より深い層の障害は、それより浅い層の症状が経過中に出現しうるが、その逆はない(たとえるならば、たまねぎの層のように重なっている)。したがって、障害が到達したもっとも深い層に従う、それが階層原則である。

連想されるのはShelerとSchneiderである。感情を基底から感覚的感情、身体・生命感情(生気感情)、心的感情(自我感情)、精神的感情(人格感情)の4層に分けたSchelerの理論を参照して、Schneiderは内因性うつ病は生気感情のレベルの障害、反応性うつ病は心的感情のレベルの障害(悲哀、不安)と定式化した。反応性うつ病は了解的に意味連関の中に位置づけられるのに対し、内因性うつ病は生活発展の意味連続性、意味連関を中断する。「層の規則」はドイツ精神医学で受け継がれている。

精神症候学の診断における役割は、病気の「真の診断」ではなく、一つの症例がどの階層の障害であるのかを同定することにある。より正確に表現するならば、階層診断およびそれに続く類型診断にとどまるというべきだろうか。われわれはある症例を観察し、それがせん妄であると診断することはできても、精神症候学だけでその原因に到達する(「真の診断」)ことはできない。精神器質性のある層にある病気の「診断」は、精神症候学ではなく、身体的検索によってのみ到達可能である器質性・症状性精神病の症候学は、多くの異なっの病気が、相互に区別することのできない共通の症候を呈することを示している。ある疾患に厳密な意味で特異的な精神症状はない。それはSchneiderの一級症状においても例外ではない。

このようにして、話はもう一段階飛躍する。診断行為そのものについて問い直す。このような探求は時々見られていて、たとえば、精神科の診断は、身体科の診断とは異なり、患者と治療者の間に成立する関係から結晶化したものだなどとする考え方である。ここでの種と類型については、有用なのかもしれないが、難解である。真贋判定は難しい。

われわれが提唱するメランコリーは、病気の種ではなく類型である。われわれは種を発見したのではなく、ただこの類型を提唱するだけである。実際の症例を測る物差しの一つといってもよい。ある症例は、メランコリーであるのかないのかではなく、メランコリーにどれだけあてはまるのか、あるいはあてはまらないのかということしか言及することができない。それは今日の統合失調症および気分障害にしても同様である。そしてこの臨床類型は、健常者の精神生活において出現することのない原不安の露呈と特有の自閉思考という特徴があるがゆえに、精神障害の分類上は、健常人の精神生活上の移行がある精神病質-神経症性およびより非特異的症状で構成される躁うつ病性の層を貫通している。明らかな予後不良例が存在すことからも、メランコリーの到達する深度は統合失調症性の層に近いと考えるべきであろう。

脳は色々な壊れ方をするが、どの深さまで壊れているか測定するといった感じだろう。神経学的にどの部分がどのように壊れているかの話ではなく、症状として、現実把握がどうか、病識がどうか、そのあたりを参考にして測定し、それを材料に診断行為が成立する。そのような流儀もあるということだ。単一精神病論とかFinal Common Pathwayの話と少しつながる。

臨床的有用性について

統合失調症は時代により少なからずその病像や経過が変化している。メランコリーを除く躁うつ病もまた、文化・社会的あるいは時代的影響を被り、診断基準の変更だけでは説明することのできない多様な変化が観察されている。

これらに対して、メランコリーの病像は時代や文化による影響をほとんど受けていない。Kraepelinの描写は多くの部分で今日のメランコリー患者にそのまま当てはめることができる。そのような不変性は、メランコリーが精神病の基本的類型の一つであることを示唆しているし、もっとも生物学的に規定されている病態なのかもしれない。この類型が疾患単位であると仮定して、生物学的な研究をすすめるのもよいだろう。何か見つかるかもしれないし、そうでないかもしれない。ただし、メランコリーに限らずらず、様々な臨床類型を提唱する意義は、それが疾患単位であるかどうかによって決まるのではない。治療に役に立つのかどうか、関係者間のコミュニケーションに役に立つのかどうか、臨床的あるいは教育的に有用かどうかにかかっている。

メランコリーについての上記見解には根拠と解説が必要だ。もっとも生物学的に規定されている病態であるとして、哺乳類全般で観察されるのだろうか。多分、そうではないように思う。生物学的に規定されて、しかもこれほど数が多いのは、少し不思議だ。進化の途中で何か有利なことがあったのだろうと思う。

特徴的な原不安の露呈、自閉思考、自殺念慮、病識欠如、匿病といった組み合わせをもつこの類型は、あらゆる精神障害の中で自殺の危険性がもっとも高い一群を形成している。そのような意味で、この類型を現在の拡大された気分障害圏に包括するのはあまりに軽率ではないだろうか。独立した臨床類型として取り上げることは、医師や家族、患者に関わる関係者すべてに特別な注意を喚起することになり非常に有意義であろう。

鑑別類型学

病気の種と類型の区別を考えると、ここで述べるのは、鑑別「診断」ではなく、鑑別「類型学」である。通常のうつ病との鑑別についてはすでに症候学的な特徴で詳しく述べた。これをまとめたのが表4である。

表4


メランコリーうつ病
一次性に出現する
感情症状の種類
否定的自己価値感情と不安が中心不快な身体感情と状態感情
とくに悲哀,憂い,落胆が中心
原不安の露呈前景に出る露呈されない
思考内容原不安(罪業,貧困,心気妄想)抑うつ気分が投射された
了解可能な優格観念や妄想様観念
体験構造世界が排除された自我内的空間へのとらわれ外界は排除されない
現実的思考様式
病識病初期から失われる保持されることが多い
匿病傾向強い弱い
自殺念慮病初期から強い病状の悪化に伴う

臨床の実務では、これらの鑑別点のすべてがクリアカットに鑑別できるものではないが、それぞれの理想型を念頭に置き、現実の症例と比較することが大切である。階層原則に照らし合わせれば、メランコリーが経過中にうつ病症状を呈すること、とくに前駆症Prodromや前哨症候群Vorpostensyndromとして躁うつ病症状が出現することはあってもよい。初老期以前に発症した躁うつ病患者の中に、躁うつの病相の後に、退行期になってコタール化した妄想を呈する症例も存在する。その場合でも、診断は到達した最も深い層が決定打となるので、その病像がメランコリーの層に達した場合には、メランコリーと診断を変更する必要がある。もっとも、われわれの臨床経験では、退行期メランコリーはまさに病初期からその特徴が明らかであることが多い。

うつ病の亜型の中では、焦燥性うつ病agitated depressionとの鑑別がより重要である。不安・焦燥という表現の範囲はかなり広く、しかも昨今では主観的・自覚的体験そのものよりも客観的表出所見として評価されることが少なくない。体験内容を十分に聴取しないまま、そわそわしている、歩き回っているなどの外観から焦燥と評価され、それ以上の観察が行われていないことが多い。

そのような事情で、臨床の現場ではメランコリーと焦燥性うつ病とはしばしば激越性うつ病として混同されている。体験内容を聴取し、できる限り鑑別を試みるべきだと考える。原不安・病識・匿病傾向の有無に注目するとよいだろう。原不安の露呈の有無がもっとも重要な鑑別点となるが、焦燥性うつ病では病感・病識が保持されることが多い。患者は「いらいらする、じっとしていられない、辛いからどうにかしてくれ」と訴え、医師に助けを求める。患者に生じた変化は、気分・欲動の状態感情領域に比較的限局している。

統合失調症との鑑別は、とくに中高年では遅発緊張病Spatkatatonie、late catatoniaが重要である。両者の密接な関係は歴史的にも証明されている。Kraepelinはメランコリーの大半を躁うつ病に帰属させたが、その一部の患者を初老期精神病praesenile Irreseinの項に分類した。ここに遅発緊張病に相当する症例が含まれているのである。われわれの印象ではメランコリーと遅発緊張病はおそらく近縁関係にある。遅発緊張病の不全型である不安・焦燥型、抑うつ妄想型はメランコリーの症候と重なるところが大きい。これらはメランコリーの病像に緊張病症状が加わった予後不良例とみることもできよう。したがって両者の間には、移行例が存在する。階層原則に基づいて考えるならば、統合失調症がメランコリーの症状を呈することがあってもよい。

脳器質疾患とくに認知症性疾患との鑑別で問題となるのは瀰漫性レビー小体病diffuse Lewy body diseaseである。とくにメランコリーで夢幻様体験を伴う症例ではその鑑別が問題となるだろう。その場合は、症候学的な検討よりも心筋シンチや脳血流シンチといった身体検査所見が鑑別診断に有効である。瀰漫性レビー小体病は、類型ではなく病気の種であるので、最終的には神経病理所見により、あるかないかの結論が出せる。われわれはそのような臨床経験はないが、階層原則に従えば症候性メランコリー(明らかな脳器質性疾患がありメランコリーの症候を有するケース)が存在してもおかしくはないことになる。それは遅発パラフレニーlate paraphreniaの一部が認知症に移行する、しかも初期症状で認知症に移行するものとそうでないものとを鑑別することができない事情とよく似ている。もっとも、われわれの提唱するメランコリーの症状はかなり特異的であり、器質性疾患で観察されることは極めて稀であると考えている。とくに重要なものだけをピックアップしたが、鑑別類型学については今後の詳細な検討を俟ちたい。

退行期メランコリーという名称は歴史的にも重要であるが、メランコリーはその時代時代に異なった意味が与えられていた。現在、Taylor、Finkがmelancholiaの呼称で、気分障害の中核群を抽出しようと試みている(表5)。彼らは、ここで取り上げたメランコリーを含むpsychotic depressionを気分障害の中核群と考えているようである。診断基準の中にはDSTテストの異常が盛り込まれており、彼らのmelancholiaは疾患単位であることが前提になっているように見える。

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表 5 Taylor, Fink のメランコリー

現行分類の以下のカテゴリーを含む

躁うつ病

 メランコリー性大抑うつ(単極性抑うつ)

 躁うつ病性抑うつ(双極性抑うつ)

精神病性抑うつ

緊張病性および昏迷抑うつ

産褥性抑うつ

異常悲嘆

〇具体的診断基準(すべて満たすことが必要)

1. 機能低下を伴う疾患の挿話であり,それは通常の日常生活に障害をきたす程度であり,最低でも 2週間は継続するもので,絶えざる不安と抑うつによって特徴付けられる

2. 精神運動性障害,たとえば焦燥,制止,あるいは両者

3. 自律神経徴候(少なくとも二つ)

4. 次のうちの少なくとも一つ

(a) デキサメサゾン抑制試験およびコルチコトロピン放出ホルモン試験の異常,あるいは夜間の高コルチゾール値

(b) REM 睡眠潜時の減少あるいはその他の睡眠異常

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われわれは現時点ではこの病態は病気の種ではなく類型であり、疾患単位であるかどうかは不明であると考えている、そして気分障害よりは統合失調症の層に近いという見解である。その点では、彼らの主張とは明らかな隔たりがある。彼らに限らず今日でもメランコリーという名称は、うつ病と深い関係があるものと一般的には認識されている。退行期メランコリーという呼称はどうしてもうつ病圏にあるものという先入観を与えてしまうかもしれない。議論の混乱を避けるためには、この病態に退行期メランコリー以外の呼称が必要かもしれない。

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なるほど。いろいろな考え方があるものだ。