その場しのぎの仕組みを作り、横文字を連発したら、スポンサーや被害者をごまかせる ジャニーズ問題

「その場しのぎの仕組みを作り、横文字を連発したら、スポンサーや被害者をごまかせるのではないか」という関係者の本音(ジャニーズ問題)

虚像を作り上げ、維持することを職業とした人々の集合。

記者会見の途中で、壇上のジャニーズ側を応援するような、記者席からの拍手。

NHKが「氏名NG記者」を「指名NG記者」として報道したことに噛みつき、投稿するお門違いの人たち。

商売する人たちは、そんな支持者が、いわば定期預金だから、さしあたっての利息を放棄したとしても、何とかして元本は残したい。元本は譲らないぞという激しく、またふてぶてしい意志。何しろ、演じることが基本の技術なのだから、円ドルだけだ。また演出することが本来の仕事なのだから、演出するだけだ。そして、虚像を信じたいという人たちなのだから、今回も信じたいのである。信じるに値する虚像だから信じたいというのでもない、何でもいいから、信じるものを下さいという人たちがいて、そうか、そんなに欲しいかと言って、信じるものを提出する人たちがいる。依存者と共依存みたいな関係で、お互いに必要としていて、真の解決は見たくない、聞きたくないで終わってしまう。

マスコミ報道でインタビューに答える支持者。ジャニーズの看板が取り外される日に、その様子をスマホで撮影している人にリポーターが聞いている。「ジャニーズの看板が外される、ジャニーズの問題は問題だけれども、自分にとって大切なジャニーズがなくなると思うと、記念に一目見ておきたいと思って来ました」と語る。

ジャニーズの看板が外されることがその人にとってどのような意味を持つのだろうか。現実は、それは実に単純に、そっけなく、単に看板を外すだけである。しかしファンの心の中ではもっと重大に意味付けが行われていて、涙を流すに十分である。

それまで時間もお金もつぎ込んできた、それが否定されると都合が悪い。周囲に対してのプライドもある。自分が自己愛を仮託してきた対象物は実は今回は誤報で濡れ衣で、この試練を耐えた後に一段強く輝く存在になると信じるなどしなければ、自己愛が破綻する。

彼らの場合の愛は対象に対しての無私の愛ではない、あくまでそれは自己愛の一つの形である。自分が特別だということの変形である。だからこの虚妄の物語を終わらせてはいけないのだ。

一つは、ファンの心の構造の問題である。「看板を外す」ことを、集団機能の終末の象徴ととらえ、感傷的になる、そのような人たちが実際にいて、そのような人たちの集合を定期預金の元本としてしゃぶりつくしてきた業界の仕組みが見える。きらきらした衣装を着けて、拍手の中で歌って踊れば、それで成立してしまう世界。野球ならば、とりあえず野球がうまくなければ話が成立しない。しかし芸能界はそれと少し違う。芸能界は野球界よりは政界に似ている。その地位をつかみ取るというよりは、だれかが座るその地位にどのようにして到達するか、その到達の仕方は、表の道も裏の道もあるということだ。しかし支持者はもちろん、表の道を信じているし、それゆえに支持している。

もう一つは、マスコミの態度である。マスコミ報道は、そのような盲目で自己愛の延長で芸能人を信じる信者を想定し、実際にそのようなインタビューの言葉を発してくれる人を求め、実際に探し出し、さらには見つからなければ、作り上げる。そのようにして長年商売をしてきたので、真実とは何かについての感覚がマヒしている。むしろ、「ジャニーズの本当のファンならば、看板を下ろす様子をスマホで撮影して、涙を流し、ジャニーズは永遠だと言うはずだ、そのような人を探せないのは取材者の力が足りないからだ、むしろ、捏造をしてでも、そのようなインタビューを流すことが真実の報道なのだ」というくらいの倒錯の中に生きている。それが業界の本質なのだから仕方がない。それがよくてその業界に行ったのだし。どうしようもない。

野球の話を出したけれども、もちろん野球も興業なのだから、いろいろある。例えば、ある投手が、来年はメジャーに行くだろうと思われていて、日本プロ野球では今年が最後だろうと言われていた。なるべく契約年俸を上げたいし、物語も作りたい、話題を提供して、儲けたい、いろいろな思惑があって、その投手になるべく負けをつけないで、連勝記録をつけさせる。相手チームの調子のよいピッチャーとは先発が被らないようにする。弱いピッチャーを相手に投げさせる。対戦チームも、自分たちはそのような土俵の上で演じている商売人なのだと理解して、なるべく、興奮を作り出す。その程度の演出はある。

つまり、野球でも、かなりの程度の演出は行われている。しかし芸能界の場合は演出がほぼすべてであり、誰をどう演出するかを決めているのは、芸能人本人ではない。芸能界における席、たとえば、テレビ番組の何かの登場枠、それは長年の慣習で、あらかじめ取り決められる。多くは芸人を仕切る人と、テレビ枠を仕切る人との合意である。CM枠でも同じ話だ。

枠を決めれば、あとはその枠を演じられる芸能人を当てはめればよい。演じることが仕事なのだから、演じられるだろう。例えば、月曜9時の恋愛トレンディドラマの役、日曜9時のサリーマン向けドラマの役など、枠が作られる。それに適した芸能人を配置する。うまくなければ、代わりはいくらでもいる。うまいとかの話は宣伝でいくらでも調整できる。自民党2世3世4世が選挙で勝つのも同じ話だ。中にはそのような演出を受け入れることを拒否する一般人もいるけれども、それは例外として、除外する。政治の世界では共産党さえも、演出の一部である。共産党は現代日本の共産党的な役割を演じることに満足している。どの業界にも長年の技術のたくわえがあるので、凡庸な芸能人を一流にするのも、凡庸な3代目政治家を一流にするのも、演出次第である。

本人の魅力がなければ話が始まらないと言えるのか。たとえば、化粧から、衣装、美容整形、演出、撮影法、話題づくり、いろいろな技法がある。虚像を作り上げる技術は野球の場合よりも進んでいる。野球選手の場合は、演出をしたとしても、ある程度の実力がなければ、どうにもならないこともある。しかし、それは相手チームと対決する場面での実力のことであって、その選手の総合的な価値はやはり人気で決まる。その選手の盲目的な支持者がどれだけいるかが重要である。その選手のためにどれだけお金を使うか。その選手を見ようと、どれだけ熱心に画像を求めるかが重要である。

テレビ局とか芸能界とか芸能人とか言っているが、実質は、猿回しとサル、サーカスの象とサーカス団長のようなものだ。どんなサルでもよいわけでもないが、ある程度はどんなサルでも、間に合う。人間も登場するがサルと立場は変わらない。ただし登場枠を獲得するために、サーカス演技者は、演技力以外の方法を用いることもできる。お金、性愛、暴力などが代表である。

そんな中で、今回は男性と未成年男性の性的搾取・被搾取が問題となっている。過去には暴力団との問題、違法な契約により金銭的に制縛する問題、枕営業、薬物汚染、その他いろいろがあったものだろう。今回、新型と言えば新型で、旧型で生きている業界人には関係ないという面があるのだと思う。

この、新型の内容、つまり男性と未成年男性の性的関係に焦点を当てる人たちと、そうではなくて、一方で、出演枠を取り決めている上部の幾人かの人間がいて、他方に、その出演枠を何としてでも取りたい人間がいて、その場合に、よくないことが起こる、これはその上部の人間に過剰な報酬つまり搾取をもたらすだけであって、改革が必要だと考える人たちもいて、問題は議論されているが、後者はそのまま、マスコミの自己否定にもなるので難しい。

マスコミも一体ではない。既得権益者は、自分だってかなりの犠牲を払って現在の地位を手に入れたのだ、取れるものなら取ってみろという態度ろう。新規参入を考えている人たちは、公明正大で清流のような世界を望んでいる人は少なく、自分が新しい支配者になりたいというだけだろう。

これは政治も同じで、既得権益者を批判する勢力は、清流のような公明正大な政治を希求しているとは思えず、ただ現在の既得権益者から利益・権力を奪取して、自分が新しい既得権益者になりたいというだけに過ぎない。

表のルールと裏のルールがあって、表のルールに従う者は負け、裏のルールに従う者は流れに乗るということならば、それは悪い世界ではないかというわけだが、実際には悪い世界なので、清流を好む者は辞退する。するとますます濁流ばかりになる。

裏のルールだから楽かと言えばそうではない。裏のルールで競うからこその厳しさもある。人間と人間の世界だから、それはどこまで行ってもそのようだ。しかしそれならば、表のルールで戦ってもいいのじゃないか、いっそのこと表のルールでも同じではないかという考えはある。

どこに希望はあるのだろうか。

昔から、このジャニーズ問題風の話は、音楽家の世界や学者、特に数学などの世界などに多かったと、30年くらい前に先輩から聞いたことはある。現代の様子は知らない。音楽家や数学者にそのような性的嗜好が多いものかどうかは知らない。しかし誰かが始祖となり、その弟子たちはそのような性的嗜好を持つ人が多くなり、それが再生産されて固定化するということはあるのかもしれない。既得権益者が後継指名ができる、あるいは既得権益者が利益分配を恣意的に決定している、そのような世界では、富や性の搾取が起こりやすい。