トランスジェンダー 女性トイレ 最高裁判決

法律の解釈とか適用にはいろいろと理論があるのだと思いますが、概略、門外漢として考えられるのは、演繹的思考と機能的思考なんだと思います。

演繹的思考は、最初に公理があって、それを前提とすれば、三段論法などで結論が出るだろうというものです。例えば、基本的人権を尊重する。少数者の人権も考慮する。などを前提として立てて、どのような結論が導かれるか、検証するものです。

法律の枠組みが、基本法としての憲法が最高位にあり、その制定時の意思をくみ取って、下位の法律が成立します。したがって、憲法に含まれる基本的価値が下位法において実現されている。数学の公理から定理が導かれ、さらに応用の事実が確定されるというイメージです。

しかし現実はそうなっていない。先に価値観を設定してしまうと、現実との不整合が発生して、なかなか困ったことになる。

憲法的価値前提としても複数の価値があり、それらが対立する場合に、どれをどの程度尊重するか、どれにはどの程度がまんしてもらうか、その匙加減は司法と立法にゆだねられている。

現に、お手本となる数学の世界でも、公理的に構築される数学全体は矛盾を解決できないものとなり、論理実証主義は行き止まりになった。生物学は生化学に、生化学は物理学に、物理学は数学に、というような理想的階層構造も怪しくなった。理屈通りにはいかない。

-----

トランスジェンダーの基本的人権の尊重を実現すると、一般女性の基本的人権が制約される。二つの原則がぶつかり合う。この矛盾点をどのように解決すればあるいは妥協させれば、社会全体として進歩できるかという問題になる。妥協の程度はどのあたりにするか、それは演繹からは決まらない。帰納が必要となる。

そこで帰納的な思考も取り入れる。もし仮に、AとBを基本理念として仮定して、Cのような論理形式で結論を導くと、現実にXのような困難が生じる。したがって、この前提または理論形式は採用できない。現実と整合的な結論が導かれるのはどの基本理念とどの論理形式なのかと論じる。そして、憲法に組み入れられていた基本理念は実はどのようなものであったかということが逆に明らかになる。そのような思考もあるのではないか。利益衡量論の素人的説明である。

-----

つまり、前提Aがあり、論理プロセスBがあり、結論としてCがあるとして、前提Aはこれまでの憲法判断とか世間の考え方とか米国からの指導とかいろいろある。論理プロセスBについては三段論法や背理法などのほかにもいろいろありそうである。そして普通ならば、結論Cはたとえ現状の現実とぶつかるものであっても、法的前提と論理プロセスからCが導かれるならば、現実を変更して、Cを新しい現実としようとする、それが我々が最高裁の憲法判断として常識的に抱いている期待である。

戦後の家族制度の変更や相続の仕組みの変更などは法律が先行して、国民の意識をリードした典型だろう。

ところが法理論としては、結論Cが、現実とあまりにも反する、または未来の方向としてあまりにも反する、という場合に、結論Cを採用しないで、結論Dとして決めて、その結論に都合がいいような前提A’と論理プロセスB’を選ぶ。

結論はDになるべきだから、前提A’と論理プロセスB’を採用すると言い出すのだから、驚くべきことであるが、しかし現実に法が機能するためにはそのようなことも必要である。

そのような蓄積がたまってきたら、憲法改正して前提AのほかにA’もあると表記すればよい。それで全体としてつじつまの合う法体系になる。

結論はCではない、Dとなるべきであると判断する最高裁判事の頭の中身が問題であるが、さて、どうだろうか。一般庶民の思考感情習慣の核心部分を代表すると考えるか、そうではなくて国民に対して指導的立場で導くものと考えるか。両方の機能があると思う。

-----

今回のトランスジェンダーの人の『女性としてのアイデンティティを生きるという基本的人権』を尊重し、しかし一方で、そのことにより、他人の基本的人権が尊重されないことがあってはならず、多少の我慢が必要としても、合理的な受忍の範囲であるべきだ。そして結果として、全体の人権状況が改善するなら、それは憲法価値を実現していると言えるだろう。

そして今回の場合、憲法価値を実現しているとは実はあまり考えられないような気がする。

少数者の人権は守られなければならない、しかしそのことによって女性の安全が脅かされるという、人権の制限が起こってよいのだろうか。その制限が必要だとして、どの程度まで許されるのか。トランスジェンダーを自認する人で、男性器がある人で、手術ができなくて、ホルモン治療をしたが、それは成功していないという例の場合、女装しているが男性器のある人が、多数の女性とトイレを共用することになる。そのことの帰結として、女性には心理的抵抗が生まれ、なるべくトイレにはいかないとかの対策をとるのではないか。遠くのトイレに行くとか。女性はが学校や職場のトイレはなるべく使いたくないと考えるようになるかもしれない。

この場合、職場はいったんは、原告にトイレが必要な時は2階上のトイレを使えと言ったそうだ。2階上のトイレは女性が使う割合が小さいのか、あるいは部署から離れているので、個人的な識別が弱く、誰がトランスジェンダーで、女性の服を着ているが、男性器が付いているかをよく知らない女性が女性トイレを使うのだから心理的抵抗が少ないだろうと思われたのか。

ツイッターに現れている意見感想では、つまりトランスジェンダー・男性器ありの人が女性トイレに入る自由があり、女性はそれを受忍してください、受忍は難しいと感じる女性はまだ勉強が足りないので講習会で学ぶようになども判決文に書いてある。判決はそれ男性器アリ・自認女性の自由と権利を支持するが、女性にはがまんしなさいということらしい。しかしそれは一般に言えることではなく、この経産省の個別の事例について言えることで、それぞれの判断はそれぞれの場所でこれから合意を形成して納得がいくように進めなさいとか判決文にあるとのことだ。

最高裁判断が「この個別対象のみに成立する話であって、他の個々の事象については言及しない」とかの言い分は少し驚くが、これは当方の判決の読み方が間違っているということなのだろう、多分。最高裁だから、個別の事象が憲法の精神に即して正しいかどうか、社会のこれからの方向はどちらかを判断して示しているはずだと思っていた。今回の判例はいろいろな影響を引き起こすはずである。

このような微妙な問題のとき(実は私はこの問題自体は「微妙だ」とはあまり思えないので、この言葉は変だと思うが、一応最高裁判決文を尊重して考える)、問題そのものに触らずに、手続きを問題にして作文しておくという解決もあると思う。問題が持ち上がった、経産省が対応策を考えだした。原告はそれが不満で申し立てた。それに対して人事院が対応した。人事院の対応喪に不満で裁判になった。この場合、経産省の思考の中身ではなく、人事院の対応について、内容ではなく手続きについて何か述べるとか、そんな感じで触れたくないことを回避するのがいつもの方法だろう。たとえば日米安保の問題などはそんな感じで、内容には立ち入らないで、形式的なことで判断を示し、結局実質としては日米安保の現状を支持するのだが、法律論としては判断は示さないという方法。

裁判長は、今回の判決について「不特定多数が利用する公共施設のトイレなどを想定した判断ではない」とした上で「そうした問題は、機会を改めて議論されるべきだ」と指摘している。ということで、勘違いしないでねとくぎを刺しているのだが、勘違いなのかな。

徒らに性別適合手術の実施に固執せず、施設管理者等として女性職員らの理解を得るための努力を行い、漸次その禁止を軽減・解除するなどの方法も十分にあり得たし、また、行うべきだった、とかの文章も引用されている。

-----

でも、更衣室の使用は肯定されていたとのことだ。女性更衣室は使ってもよくて、女性トイレはダメとか、この問題は分かりにくい。トイレは個室に入ったら関係ないわけで、むしろ女性更衣室を使用できることが驚きではないだろうか。という意見もある。

-----

そもそも性的少数者が問題なのではなく、犯罪の意図を隠し持っている女装趣味者が問題である、それに対して社会がどう対処するかという問題であるとの見解も有力である。このように、性的少数者の問題ではない、切り離すべきだと言われれば、それも正しいと感じる。

しかしここでも問題は発生していて、犯罪の意図を隠し持っている女装趣味者との言葉で表現されていたのであるが、女装を好む人たちからの異議としては、「女装愛好者」集合と「犯罪の意図を隠し持った人」集合を関連付けていることである。

「女性トイレで犯罪を犯して性的興奮を得ようとする人」の場合は、とりあえず女装して女性トイレに侵入したいと思うのではないかと考えられるかとも思うが、そこから犯罪を意図する人と女装愛好者が関連連れられるとすれば、それは過剰な関連付けであるとするものだ。

女装愛好者のなかにもいろいろな人がいるだろうが、その中の一部だけについて、「女性トイレに入るのは問題がある」と一般女性たちに思われていて、「歓迎されないのならば興味がない」と思う女装趣味者もいて、「歓迎されないならなおさら興味がある」と思う女装趣味者もいるのだろうと思う。

-----

いずれにしても、現状の一般認識や一般感情と考えられ共有されているものに対して、裁判という形であからさまに問題点として突きつけられるのは、一般社会の側の人間としては不可解なことだとは思う。

しかし、その不可解さを確認したうえで、ひょっとしたら、トランスジェンダーの人たちの性自認にまつわる不快さや苦悶はいま一般社会の側が味わっている不可解さと似たものではないかと考えられないだろうか。

一般の人が今回の件について、「断じて受け入れられない」と感情をあらわにするのと同じ程度に、トランスジェンダーの人たちは、自分の中の性違和感について、断じて受け入れられないと感じているのかもしれない。

その点で、一般の人としてはこれまでどうにも共感できないし了解できないという論点だったものが、こんな感じの違和感なのかなと推測する際の手掛かりになりそうだと思う。

女性が、女性トイレで鏡に向かっていたら、女装して男性器をもった人が入ってきて、違和感を覚える。多分その違和感以上の感覚をトランスジェンダーの人たちは自分の身体に関して感じているのではないか。だとしたら、容易ではない事態である。

というような話になる。