キリスト教の聖書

キリスト教の聖書を見て思うのだが、
話の傾向として二つくらいあり、
一つは妄想話。超能力者のようなこととか、あれこれ。全能の妄想とかもこれに類する。
一つはうつ状態の気分で自責的なこと。罪びとである、罪悪感をもっと深刻に感じろ、もっと反省しろというような側面。
長い時間をかけて編集されたものなのだろうから、シゾフレニー的な人たちの書き残したものと、デプレッション的な人たちの書き残したものが混合されたのだろうが、読んでみると、奇妙な混合物だと感じられる。

この奇妙さは、キリスト教が、神との直接対話を重んじることと、信仰共同体としての集団運営の原理と、二つを結合させる必要があったことに由来すると思う。
もともと矛盾する二つのものだと私は思う。

神との直接対話はシゾフレニー的であり、神からの直接の啓示を重視することにつながる。超越の視点である。
集団運営の原理としては、デプレッション的な罪悪感を強調すれば都合がいいだろう。みだらな思いを持っただけで罪びとであると言われれば、すべての人は罪びとだろう。現世の視点である。