自我の能動性の障害についての私見(時間遅延理論)

自我の能動性の障害についての私見

(0)まず意思が発生する
(1)運動神経に信号が送られ、同時に「照合部位」に予測が送られる
(2)対象に結果が発生
(3)感覚器と感覚神経を通じて、「照合部位」に結果が送られる
(4)予測と現実結果が照合される
(5)予測と現実結果のズレが意思発生部位に送られ、訂正される

例えば、野球でピッチャーが外角低めにストレートを投げる場合
(0)外角低めにストレートと意思する
(1)投げると同時に予測信号が送られる
(2)例えば、結果は外角高めのストレート
(3)視覚を通じて結果が送られる
(4)照合
(5)もう少し、こんな感じかな、と訂正する

たとえば、料理の塩加減
(0)パスタに入れる塩は、今日の料理ならこれくらいかなと意思して、塩の量を決める、同時に予測が送られる
(1)運動神経に信号が送られ塩が投入される、同時に「照合部位」に予測が送られる
(2)塩が溶ける
(3)味見をしてみると、舌を通じて、結果が送られる
(4)予測と現実結果を照合
(5)もう少し、こんな感じかな、と訂正する

つまり、意思発生部位と予測・現実照合部位との間でフィードバックループができている。

ここで、
A=予測
B=現実
の、内容ではなく、照合部位への到達時間を考える

(1)A=予測がB=現実よりも早く到着すると、意思の能動感が発生する
(2)A=予測がB=現実よりも遅れて発生すると、能動感が失われ、様々な自我障害が発生する。
その遅れの程度が少ないものから並べて、スぺクトラムを考えることができる。離人感、自生思考、させられ体験(作為体験)など。

強迫体験の場合、能動性は薄れているが失われていない。

(3)A=予測とB=現実がぴったり同時であるのは、スポーツ選手などが「ゾーン」などと表現するような場合で、意思の能動作用はほぼ消失し、自動的に反応しているように思われ、しかし被動的でもない。何も考えず、体が反応した、というような場合である。
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さて、従来、自我の能動性が障害されて、「させられ体験」が生じるとされているのだが、本来、自我の能動性は成立するのだろうかとの疑問があった。なぜなら、脳は哲学や人文領域でいうところの能動性を持つはずがない。自分には能動性があると錯覚しているだけである。
生物の神経系の原初的な形としては、外来の感覚刺激に反応して運動信号を発送するものである。そこには能動性はない。始まりは常に外界にあり、被動的である。
神経系がある程度複雑になると、同じ外来刺激のセットに対して、どのように反応すべきか、選択することができるように思われ、そのことを能動性と表現することがある。
しかしそのことも結局は学習の結果であり、能動性とは言いがたい。
この辺りは、結局、能動性という言葉の定義によるのだけれど、カント的な意味での意思の能動性などはないだろう。
われわれは、本来、意思は被動的であるにも関わらず、意思の能動性があるかのように錯覚している。

その錯覚が生じるのは、上記でいえば 、A=予測がB=現実よりも早く到着すると、意思の能動感という錯覚が発生するからである。その錯覚が常態となっている。そしてその錯覚が失われて、本来の姿である被動的になると、人間は非常に苦痛を感じる。その苦痛を人に相談すると精神の病気だといわれる。まあ、表現が難しいのだけれども、そのような事情である。
しかしそれはまた、別の問題である。ここでの主題ではない。もちろん、深く関与するが。
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予測と現実の不一致が問題という場合は、一部は知能の問題と考えていいだろう。しかしここで問題にしているのは、予測内容と現実内容の一致・不一致ではなく、照合部位への到達時間の違いである。予測が遅延すれば能動性が失われ、被動性を体験するのである。簡単に時間遅延理論と呼んでおいた。

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この理論では、させられ体験は、内容の問題として被害妄想に分類すべきではなく、時間遅延の結果に過ぎないといえる(それを妄想と定義することもできるだろうし、それはまた別の問題である)。
そして加えて言えば、能動性は本来、錯覚であり、させられ体験はその錯覚を失ったものであるといえる。つまり、原初の様態を表している。錯覚という保護膜に包まれる前の状態である。

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もちろん、させられ体験の場合、誰かに操作されていたというとして、そんなことが可能かと考えると、考え違いとしか言いようがないので、妄想というべきであろうが、主観的体験を言葉で表現する場合、「誰かにさせられた」としか言いようのないものなのだろう。ここには体験をどう他人に伝えるのかの問題も横たわっている。

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幻聴については、自己内部の考えが、自分で意識するのよりも先に、照合部分に届いてしまうので、その考えは他者に属するものと感じられる。それが声になるのは、視覚に比較して聴覚は被動的であり、視覚は目を閉じることができるのに対して、耳は閉じることができない。
将来、視覚野に直接信号を送るシステムができて、現在の電子メールを脳の視覚野に直接送信するようになったら、自分で送った電子メールの文字なのに、他人から無理に送り付けられたメールの文字が見える症状が発生するだろう。