『私という小説家の作り方』大江健三郎。1998年。

『私という小説家の作り方』大江健三郎。1998年。
無宗教者の祈り、という言葉について考える。
キリスト教を背景とする西欧作家の作品で「魂」といえば、キリスト教的な意味で神につながる魂のことだろう。
大江が述べているような、無宗教者であって、しかし魂について考えたいとする場合、どのようなものであるか。
無宗教者における魂の問題について、私は個人的には私なりに、よくわかる気がするので、大江のエッセイは好きだ。
大江の小説はだいたいが現代音楽のようなもので、いつも繰り返し聞きたいものではない。バッハやモーツァルトとは違うと思う。
他の作家ならば、この言葉、この文章が、この問題、この観念、このイメージが、中心となるインスピレーションかとピンとくる場合も多いのだが、大江の場合は、それも難しい。
たとえば日本の甲子園で、高校生の応援団が必死に祈っている姿がある。その場合には、何を頭に思っているのだろう。PLや天理なら何に祈るかは公式に決まっているのかもしれない。
キリスト教の人たちは、野球場にいても、たいてい、キリスト教の神に祈るだろう。
無宗教者の抱く神や魂については、普遍宗教に至る前の土着的な「神」、あるいは諸宗教に共通の普遍的な「神」、だいたいこの二つの可能性が高く、このふたつは同じものである可能性も高い。
唯物主義者といっても、人事を尽くしたうえで待つ場合には、やはり祈りのようなものになるだろう。大切な人が手術室に入って出てくるまで、手術室の前で待つとき、唯物主義者もたぶん祈るだろう。
それは宗教者であっても、唯物論者であっても、共通のものだろう。
唯物論者はなぜ、何に向けて祈るのだろう。
分からないが脳に埋め込まれた自然なプログラムなのだろう。
無宗教者にも敬虔な気持ちもあるし、死者に対する特別な思いもあるし、祈りの気持ちもあるし、倫理観もある。魂のことについても、明確に定義できないながらも、なんとなくこんな感じなんだろうというあたりは推定できる。
逆にキリスト者であっても、傲慢で魂に対しての配慮に欠け、教会に対しての形式的従順はあるけれども、倫理観に欠けるひとなど、当然存在する。
無宗教だけれども、超越者に対して敬虔であるという事態はあると思う。そこから、魂に配慮することも発生するだろう。
この場合の超越者や魂という言葉は、諸宗教の神や魂という言葉に補助線をひいて、無宗教者まで延長したものだ。
文明以前にも葬儀などはあったので、魂や神の概念の萌芽はあったのだろう。アニミズムの時代といわれている。
そのように考えてみると、無宗教者の祈りというものは、古代アニミズムの時代からあり、今現在も各宗教や無宗教者に共通に存在する何かで、だからこそ、普遍的で純粋なものと言えるような気がする。
定住稲作の時代には個人ではなくて集団として動くことが必要になり、また、定住に由来する所有権とか権力関係とか必要になり、そこで、狩猟採集時代とは違った宗教が必要になったのだろう。たぶん、集団統合の原理として、また上位者が各人に命令する正当性としての宗教ということになるだろう。そして隣の部族とは信仰が違うなどと言って交わらないなどがあったはずだろう。
そのような、集団統治の原理としての宗教ではない、それ以前の、神と魂である。

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大江の場合、当然のように西洋の詩人が心と魂のよりどころとなっているのだが、私にとってはなかなか難しい。ウィリアム・ブレイクなどもいろいろな人が論じているので手に取ってみるが、なんとも神秘主義が濃厚で、愛するまでには至らなかった。絵があるから、ほかの詩人よりは分かりやすいのだが。
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