祈りの意味の仮説 自由意志の仮説

祈りの意味 自由意志
祈りが単なる自己満足で、現実に効力がないとしたら、なぜそのような習慣が人類にいまだに残っているのかと考える。野球場でスタンドから祈るなら、プレイヤーに伝わるかもしれない。それは実際の影響力があるだろう。しかしテレビの前で観戦して祈る場合、実際に効果がないと思う人はいない。清らかな気持ちで祈っているし、その熱い時間は精神が清められたような気分になるのではないか。
祈りのメカニズムの仮説を考えてみる。
たとえば、これから一秒後に、私が右手の人差し指を右に動かすか、左に動かすかで、未来の世界は少しだけ違う。最近はバタフライエフェクトなどと言われるような、微妙な連鎖といわれるものもあるが、それは現実の物理学で説明されるだろう。私の言いたいのは少し違う。
私が指を右に動かすか、左に動かすかで、未来の世界は少し違う。量子力学でいえば、未来の可能性は確立の雲のように存在している。それなのに時間を実際に生きてきた私は、可能性の束として存在しているのではなく、ただ一つの存在である。だから未来の時間軸の中の一つに生きていて、この世界が一つだとすれば、それは他人の運命をも巻き込んでいることになる。
量子力学をどう解釈するかは、大まかにいえば二つあり、ひとつは未来が現在になる時に、他のすべての可能性は消滅し、一つだけになるというもので、もうひとつは、確率の雲に従って、時間軸は無限にあり、確率に従って濃淡があるということになる。
時間軸が無限にあるとしても、一つの時間軸に進む私は一つだけであるから、生きている私としては、どちらの解釈でも同じだろう。
無限の時間軸があり、それぞれの時間軸に進んで生きている自分の意識が薄くてもつながる瞬間があるといったようなSF的な解釈もある。それはそれで仮説としてよいが、無限の処理に困ることになるので、しばらく置いておく。

重要なのは、未来の選択が無限にある中で、自分は一つだけを選ぶということである。世界は一つだけだから、他人を巻き込むことになる。同時に、他人の選択で世界は違ったものになり、その選択に私も巻き込まれる。
そうすると、次の投球をヒットにしてくださいという願いが、未来を変えるかもしれない。祈りは時間軸の選択に有効かもしれない、そう考えてみる。かなり飛躍はあると思うが。

私の自意識は、次の瞬間を自由意志によって決めているという確信があるのだから、未来の時間軸選択に関して、私の自由意志は影響力を行使することができるはずである。
そう考えると、何か特有の祈り方が、効率よく未来に影響を与える可能性はあり、それが人類の歴史の中で、進化論的に洗練されてきたかもしれない。

というところまでが前半。後半は自由意志の話。
このような考えは、自由意志の存在を前提として、量子力学のひとつの解釈を採用すれば、可能なのだが、果たして、そもそも自由意志は存在するのだろうか、という部分が大問題である。
現在の素朴唯物論的世界観でいえば、人間の日常の直観に反して、自由意志の存在を肯定することは難しいと言わざるを得ない。
伝統的な、どの哲学でも、自由意志は神の存在や人間存在の尊厳と直結していて、直感的に肯定されるものである。動物と違う点だと昔の哲学者は言う。しかし素朴唯物論的立場からは、自由意志が発生するメカニズムが考えられない。
たとえば進化論的に考えても、単細胞生物から人間まで考えるとして、単細胞生物には、素朴唯物論の見地から言えば完全に説明可能な生化学プロセスしかない。
では、単細胞生物から人間に至るどの地点で自由意志は発生したのか。たとえば猫は自由意志を持っているのか。犬はどうか。持っているように見えても、人間が自分を投影して解釈しているだけではないか。
また例えば、人間の赤ん坊が自由意志を持っているとは考えにくい。では個体発生のどの段階からどのようにして自由意志は発生するのか。
また例えば、人体を解剖して、脳の機能を生理学的に研究して、自由意志のメカニズムをどう考えたらいいのか、良い考えは浮かばない。
そのように考えていること自体が、自由意志の存在を証明しているではないかといわれそうだが、素朴唯物論では人間のすべての脳活動は自動反応機械に過ぎないと考えている。複雑さはかなりのものであるが、それでも、基本的に、刺激、情報処理、反応があるだけで、自由意志など仮定しなくても説明できる。
説明が難しいのは、「私は自由意志を持っている」という自然で強力な先験的思い込みのメカニズムである。自分には自由意志があると感じるその実感を否定するのは難しい。「自分がそうしたいと思ってしている感覚を否定できない」と考えるのは無理もない。それが常識である。
その点を解決するために、自由意志は錯覚であるという仮説を私は提案している。
自由意志は本当はないのに、あると錯覚するメカニズムがある。それは、自由意志が消失する病気を参考にすればよい。
自我意識の障害の中で、意志の能動性が失われ、「自分の意志は他人に操られている」という場合がある。また、それと、健常の意識の中間として、意志の能動性が薄くなっている場合があり、「自分ではやめようと思うんですがどうしても考えるのをやめられなくて、でも自分がやっているんですが」という場合もある。また、「自然に考えが浮かんでくる、自生する感じ」という場合もある。
意志の能動性が失われて、他動的に感じられる場合があり、また、その中間形態と考えられる症状もあり、意志の能動性には幅があることがわかる。
私の提案は次のようである。知覚情報が脳内に伝わり、「照合部分」に行くが、そこには、脳内で合成される予想的な知覚情報も入っていく。つまり、「照合部分」では、外部知覚刺激と、内部合成予想知覚刺激とが照合される。この、照合部分では、外部知覚と予想知覚が照合され、食い違う場合に、自分の内部予想を訂正すると従来説明されていた。
私はここで、外部知覚刺激と内部予想知覚刺激との時間差を検知していると考える。そして、内部近くが先に到着し、そのあとに外部知覚が到着すれば、自分の予想が正しかったわけで、その場合に「能動性」と感覚される。逆に、外部知覚が先に到着し、後に内部近くが到着すれば、これは「他動性または被動性」と感覚される。両者が同時であれば、能動性でもなく他動性でもない、自生的というに近い感覚になるだろうと思う。
例えば、この辺りこんな感じでにボールを投げればストライクになるはずだとボールを投げる。その時、内部感覚として、あのあたりにボールが行って、こんな風に見えるという予想がある。これが内部知覚情報である。一方で、現実にボールがどこに行ったかの外部知覚情報がある。この二つの情報を照合して、内部知覚情報を訂正していれば、最後には外部知覚と一致するはずで、その地点で、ボールのコントロールの仕方を習得したということになる。これが外部知覚と内部知覚の照合と訂正である。
一方、時間のずれは、内部知覚が先に到着して後に外部知覚が到着すれば、ここに能動性が生じる。逆に外部知覚が先に到着してその後に内部知覚が到着すれば能動性は失われ、多動性と感じられ、自由意志の感覚も失われる。

そんなわけで、自由意志はないと結論する。
そんなのは人間性の冒涜だとか反論がありそうだが、それは常識に反するだけである。地動説や進化論と同じである。倫理の根源が崩れるとか言っても、それは現在の考え方が間違っているだけで、新しい倫理学を構成すればよいだけである。この先は神学論争になってしまうのでやめる。

以上で、概観する通り、現状では、祈りの仮説と自由意志の仮説が食い違ってしまい、困っている。どちらかといえば、祈りの仮説のほうが世間的にはまだ通りそうである。神や超越の話は好きなのに、一方で、自由意志を否定する話をするとは、どうなのかと思うが、人間はそのようなものだ。仕方がない。矛盾があるからと言って、思考を止めるわけにはいかない。