ライシテ 公共の場における非宗教性 フランスでは2004年に制定された公立学校におけるヒジャーブ(スカーフ)禁止の法律

フランスにおける、公共の場におけるイスラム教徒女性のスカーフ着用問題。
フランスでは2004年に制定された公立学校におけるヒジャーブ(スカーフ)禁止の法律があり、当時論争になった。
ライシテは共和国が獲得した重要なもの。公共の場における非宗教性。

森洋明の文章の紹介

イスラム教の女性が被るスカーフがフランスで社会問題として表面化したのは,1989年10月,パリの北オワーズ県クレイユ市のガブリエル=アヴェ中学校(公立)に通う 3人のモロッコ人の女子中学生がスカーフを被って登校したことに始まると言われている。イスラム教徒のスカーフ問題はそれ以前から,教育の現場で見られる現象であった。しかしほとんどの場合は,学校と家族で話し合いがもたれ,スカーフをとることで問題を解決していたので,社会問題として扱われることはなかった。このクレイユの中学校の場合も,学校側は父兄会やマグレブ三国友愛会,優先教育地域(ZEP)のモロッコ人協会のメンバーと相談をしている。そして,教室の入り口までの着用は許可されたが,教室内では肩にかけるとのことで合意を得ていたという。ところが,少女たちの家族はこの案を聞き入れなかった。また少女たち自身も,この条件では教室に入ることを拒否したのである。そこで学校は,校則に反する彼女たちを退学処分とした。

フランスでは学校という公共性と宗教的象徴が相容れないということである。もちろん対象としてはイスラム教だけに限ったことではない。これは, 「ライシテ」と呼ばれる, 「公共の場における非宗教性」を尊重する精神に深く関係している。
何れにせよ,イスラムのスカーフ問題は,学校だけでなく社会全体の問題となっており,その問題点は,公共の場における非宗教性ということである。

シラク大統領は, 12月 17日,メディアを通じて国民に向けて演説した。その中で大統領は,絶対王政時代やナントの勅令,またフランス革命やドリュフェス事件等のフランスの歴史を通じて培われた共和国精神に言及した上で,『ライシテ』 は信教の自由を保障すると述べ,続いて 『ライシテ』はあらゆる出身地や文化,或いは男女を問わず,共和国とその憲法によって個々の信仰が守られることを保証するものであると言明した。特に,教育に関して「学校は,価値観や知識の習得の面,さらにスポーツや教育における男女の平等を保障するために,我々が守らなければならない共和国の侵されざるところで、ある」と述べた。

共和国精神はフランス革命の原動力であり,今日のフランス社会の根底に流れる基本的な考え方である。「フランスは,不可分の非宗教的,民主的かつ社会的な共和国である」という 1958年第 5共和国憲法第 2条が,この共和国精神を最も端的に言い表している。スカーフ問題におけるこの共和国精神との接点は,「非宗教的」という部分にある。ここではフランス革命以降,フランスがどのように非宗教化していったのか,その足取りを簡単に見ていく。
1789年の草命以前,フランスでは,生活のあらゆる面において教会に支配されていた。誕生から始まり,洗礼,結婚,葬儀などすべて教会で行われるものであり,婚姻や離婚,信教の自由もなかった。またこの教会は行政とも密接に連関しており,教会に反旗を翻すことは,市民としての権利を放棄することを意味した。この場合,教会とは,カトリックと同義語であると考えてよい。戸籍に関しても,革命以前は教会が管理していたので,カトリック教徒しか戸籍を持てなかった。共和国宣言は,従って,身分制を廃止し,その出身地や宗教が何であれ「不可分」な共和国の一員ということを保障したのである。それは,教権の支配から国家の支配,換言すれば宗教的支配から非宗教的支配へと移行していく過程でもあった。
また1790年,革命の翌年の立法議会により修道院の統廃合が決定され,それまで行政区分を支えてきた司教区や教区は市町村に代わっていく。教会の司祭に関しても能動市民による選挙で選ばれることになる。選ばれたものは憲法の遵守する「公民宣誓」が義務づけられた。これは革命への忠誠を強要する意味を持つものである。
1801年,その 2年前に第 l帝政を樹立したナポレオンは,政教協約によって複数の宗教(カトリック,プロテスタント,ユダヤ教)を公認した。確かにこれによって,聖職者は国家から俸給を与えられることになり,脱宗教化からすれば逆の流れではあったが,フランスにおける宗教は,国家への服従と引き替えに宗教儀礼が多様化することになった。結果的にカトリックだけの支配の時代からすれば,さらに前進したものと考えることもできる。
第 3共和政の下で,国家の非宗教化は加速していく。日曜日を休日とする義務や墓地の宗派制の廃止したり,葬儀の民事化,病院職員を聖職者でないようにする動きも出てくる。そしてこの時代になってようやく「ライシテ」という表現が表に現れてくるのである。語彙の概念に関しては,宗教という普遍的なものの見方ではなく,それはむしろ教会権力,つまりカトリック教会の権力体制からの解放を意味していた。それは,この第 3共和政の下で発布され,国家と教会との関係を決定づけた先の政教分離法が, “La Separation des Eglises et de l’ Etat”と,カトリックの教会を意味する”Eglises”
という言葉が使われているところからも読みとれるのではないだろうか。
この政教分離法では,公認宗教制度を廃止した。国からの俸給は施設司祭だけとなった。信教の自由,祭祀の自由が保障されるようになっていく。これはつまり「宗教は個人的な選択による『私的』な営みとなった(林, 2001: p.39)ことを意味し,さらに換言すれば,公共における宗教性を一切排除することを意味しているのである。
「ライシテ」の精神の誕生はこのようにフランス草命から続く教権との闘いの中で育った考え方と言えよう。むしろフランス革命を起こさせる原動力となった考え方とも言えるかもしれない。フランス革命は,単なる政変やクーデターのようなものではなく,長い間支配され続けてきた,旧体制である王権からの脱却であり,その王権と深く結びついていた教権,つまりカトリックの支配からの解放のための闘いの歴史から成り立っている。共和国憲法の中に謳われている「フランスは,不可分の非宗教的」の表現には, 200年以上にも続いてきた戦いの重みがある。

  1. 2. 2.教育に「ライシテ」の浸透
    「ライシテ」の日本語訳は「政教分離」や「非宗教性」であるが, 「ライシテ」とは,スタジ調査委員会の報告書では,①信教の自由を保障,②信教,宗教の意見の権利の平等性,③各宗教に不公平がないように政治権力の中立性,の 3つの原則から成り立っているとしている。「ライシテ」は,公共の宗教に対する中立性,あるいは非宗教性であり,決して反宗教性を意味するものではない。「学校は,我々が共有する価値の習得と伝達の為の総本部である」と言われるが,この「我々が共有する価値」とは他でもない共和国精神であり,その核を成すのが「ライシテ」である。「ライシテ」の精神が教育の現場にどのように浸透してきたのか見ていきたい。
    教育の現場におけるこの「ライシテ」は,いくつかの法律によって浸透していく。教育における教会権力からの脱却は, 1833年のギゾー法が最初だと言われている。これは,各市町村に小学校を lつ置くことを定めたものである。このことによって教師は市町村の参事会の管轄下に置かれることになり,報酬は市町村と家族の寄付よって賄われるようになった。 1850年に出されたファルー法では,中等教育が大学から切り離された。また,そのほとんどがカトリックで経営されていた私立学校は,国や市町村から校地と補助金を得ることが保障されたが,その割合が規定されるようになった。
    さらに 1880年代,第 3共和政 (1870に成立)の下で,フェリー法が施行される。これによって小学校は無償になる。そして 1882年には 14才までが義務教育となる。そしてここで初めて「ライシテ」が明記されるようになる。これは教育の「世俗化」を意味する。またそれまでの宗教教育(ファル一法の下で)の時聞が,道徳,公民教育になる。つまり,これまで教会という権力の下でなされてきた教育が, 「共和国市民の育成」に向けて大きな一歩を踏み出すことになるのであった。
    1886年のゴブレ法では,教師の非宗教化が進むことになる。それまでの小学校教師の半数が聖職者であったが,公立の学校においては非宗教の教師が教育を担当することとされ,それまでの聖職者と入れ替わるようになっていく。公立と私立の併存は容認された。また, 1904年の政教分離によって,修道会による教育が禁止される。
    このように教育の分野における「ライシテ」の精神は,共和主義者にとって,教権主義者こそが敵である。だから非宗教性に対する攻撃は共和精神の侵害として受け止められる。共和主義者にとって学校の非宗教性とは, 「不可分」であるフランスにおいて「国民的単一性」を鍛える場所であらねばならないのである。つまり,宗教や民族,身分などの社会的分割を越えることができるものであり,それが,国の同化政策と繋がっていくのである。だからこそ,学校は共和国の基礎であり,それは国家問題となるのである。一女生徒のスカーフ問題は,従って,個人の問題ではなく国家の問題となっていく構造がここにある。
  2. 問題の焦点
  3. 1.キリスト教文化背景
    このように学校は,共和国精神を養うための場として位置付けられ,そのために非宗教性を浸透させるための長い闘いの歴史を持っている。従ってそのような場所にある宗教的シンボルとみなされるものを持ち込むことは容認し難いとなるのである。つまり,「ライシテ」を標榜する共和国にあって,イスラム教の教えの日常生活での実践は相容れないことが問題の根底にある。