下書き うつ病・勉強会#38 進化生物学 天才と秀才

下書き うつ病・勉強会#38 進化生物学 天才と秀才

進化生物学の観点から精神病を考えてみる。

いわゆる「統合失調症パラドックス(schizophrenia paradox)」がある。

統合失調症患者は子どもの出生率が極めて低いにもかかわらず、どの民族、社会階級でも人口あたり約1%にみられる頻度の多い疾患であり続けているというのがそのパラドックスである。(どの民族、社会階級でも人口あたり約1%にみられるとの観察は怪しいとの意見がある。しかしたいていの教科書にはどこでも同じ割合であると書いてある。)

その遺伝子は低い出生率と短い寿命に代表される選択上の弱点をもつ一方で、進化論的選択上の利点をもち、これによって弱点は代償される。感染症(例えば、天然痘やコレラ)に対し抵抗力があること、大きな外傷に対して強く、痛みに対して強いこと、(ヒスタミンなどの)生理学的物質に対して強いことなどが生存上の利点にあたる。

統合失調症遺伝子(Sc─ gene)は保有者が多いものの、顕在発症するのは 25 %にとどまる。残りの75 %では、遺伝環境と外的環境によって顕在発症が防がれる。統合失調症者は、社会構造がより単純で、身体的に過酷な環境の方が正常な生活をすることができると考えられる。

統合失調症がある一定の状況下では生存する上で有利な特性をもっていることは、進化生物学の見地からは、マラリアに対する抵抗性をもつ赤血鎌状赤球症に似ていると考えられる。実際、鎌状赤球症自体は貧血があり生存に不利であるが、マラリア蔓延地域では、ヘテロの遺伝子の保有者はマラリアに感染しないので、非保有者に比べ自然選択において有利である。

統合失調症遺伝子の有利な側面について、仮説では言語使用、創造性などが挙げられている。挙げられているというだけで証明されたわけではないし、証明されないのだから、一般受けするものを言いたくなるのも分かる。

今日、統合失調症の遺伝子探索の研究の結果、1 対 1 対応する決定的な遺伝子はみつからず、代わりに統合失調症発症に関連する感受性遺伝子が多数あげられた。

統合失調症に関連する遺伝子変異はなぜ排除されないのか? 生殖能力の欠損は統合失調症の男性で70 %、女性で 30 %である。この不利とバランスをとるためには、際立った、しかも普遍的な利点がなければならない。

Kretschmer は『天才の心理学』において、歴史上の著明な哲学者に分裂気質、分裂病質の人が多いことを示した。Jaspersは『ストリンドベルクとヴァン・ゴッホ』において、ヘルダーリンに代表されるように芸術家のなかに統合失調症を発症する人が少なくないことから、統合失調症と高い質の創造性の間に深い結びつきがあることを論じた。創造性に関わる最近の遺伝子研究の知見はKretschmerとJaspersの学説を支持するものといえる。進化精神医学の見地からすれば、統合失調性パーソナリティ障害(Schizoid)、統合失調型パーソナリティ障害(Schizotypal)、また統合失調症を抱える創造的な天才、ないし傑出人は統合失調圏の人が生き延びるうえでの不利な側面と有利な側面の双方をもっていることを見事に示す範例となることだろう。
映画で描かれたナッシュの例などがある。

一方で、躁うつ型の天才もいる。統合失調症タイプでも躁うつ病タイプでもない天才もいる。ADHDやASDタブの天才もいる。
しかしこの話は、天才とは何かが不明確だし、統合失調症タイプが何かもやはり不明確である。自然科学的言明とは言えない。

DNA分析では、躁うつ病に特有の遺伝子や統合失調症に特有の遺伝子は見つかっていない。躁うつ病と統合失調症に共通の遺伝子が見つかっている。
また遺伝研究で、統合失調症と躁うつ病は血縁者に発生することがある。統合失調症は統合失調症だけに、躁うつ病は躁うつ病だけに遺伝するのではなく、クロスして遺伝する。
薬剤の使用についても、抗精神病薬はもともと統合失調症に効く薬であるが、躁うつ病にも効く。
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天才と精神病の話はしばしば話題になる。

天才と秀才の違いを考えてみる。私が考える範囲では、以前話した、その人の座標のたとえでいうと、天才の脳の座標は、現在の自然界の法則とぴったり一致した座標である。秀才の脳の座標は、現在の社会に一致した座標である。

天才という言葉がふさわしいのは自然科学分野だけである。人文科学や芸術では天才というのは「自然科学で言う天才に例えられるような優秀な人」という意味で、単なるたとえ話または概念の混乱に過ぎない。人文科学や芸術の領域の評価は結局人の評価である。自然科学では正解は自然がすでに内包している。自然科学以外は法律でも文学でも絵画でも映画でも人間が作り出したもので、その分野に対する評価も人間が下している。人間が作り出したということは人間の脳の働きを反映していて、その点では自然の法則の一つと言えるのだが、ヒエラルキーが違う。

天才は、もともと脳の中に自然法則が埋め込まれている。もちろん、進化論的産物である。脳の座標が偶然に自然法則と一致している。頭がいいのはもちろんなのだが、たとえば、自然法則に一部変更があったとしても、それに対して柔軟に、自分の頭の中の座標を修正することはできない。生まれつきの座標に従うしかない。しかし人間の一生の中で自然法則が変化することは実際にはないので問題にはならない。

秀才は学習能力の高い人である。秀才は医者になりたいと思えば医者にもなれるし、法律家になりたいと思えば法律家にもなれる、学者にもなれる。脳の座標が偶然に自然法則と一致しているタイプではない。学習能力が高いので、目標を決めれば、その方向で学習の才能を発揮できる。秀才が自然科学者になったとして、自然法則が少し変わったとしても、変化に適応するだろう。天才はそれができない。その意味で、秀才は便利なもので、天才はどうしようもないものである。

法律というものは人間が作ったものであるから、それに先天的に一致している脳にその時代としては価値があるとはいえるが、ここで言う天才ではない。社会が変われば、たとえば江戸から明治になり法律が変われば、天才は天才ではなくなる。ここで考えている天才はそんなものであるはずはないので、それは天才ではない。環境が変わっても適応できるのならばそれは秀才である。

芸術というものは人間が評価するものである。その評価によって芸術分野での天才が生まれるのだろう。だからそれは天才ではない。天才だけれども世間から評価されなくて、死後に天才と認められたという人は、結局人間の評価が基準であるから、天才とは言えない。

この意味での天才は数が少ないわけではない。しかし偶然に自分の才能に気づいて自然科学研究を仕事としなければ業績を残すことは難しいだろう。そうでない人は例えば職人になっていい仕事をしたり、豆腐屋になって毎朝豆腐を仕込んでいるかもしれない。

頭の中の法則が自然法則と一致しているから、数学は物理学を記述できる。それが天才たちの仕事である。
数学は自然界の法則を純化したものである。

精神病の人の一部は、一般の平均的な座標からはずれていて、しかも、自然法則からもすこしずれている人である。自然法則とぴったり一致していれば天才である。ややずれていれば、世間の標準からも、自然法則からもずれていることになり、やや生きにくいことになる。

座標変換はまったくランダムに起きて、進化論的に選択されるので、自然法則にぴったりのものとややずれたもの、もっとずれたもの、などが発生する。

世間の標準は自然法則の秘密に興奮する脳ではないので、人間集団を維持して、子孫を育てる。天才発生の母集団を維持している。

こうした見方から言えば、なぜ精神病が存続しているかと言えば、天才を生み出すために試行錯誤が続いているのだということになる。(つづく)