理性が信用しきれない理由 理性の進化論的説明

理性は間違うこともあると考えているが、その概略は次のようである。
数学の演算で得られる結果が、自然法則を予言することがあった。数学がなぜ自然法則を予言するのかは実に不思議である。
たとえばニュートン力学の神秘的なまでの成果を、カントは感嘆して見せた。しかしなぜ数学が自然法則を記述するのかについてはカントは説明していない。
コンラート・ローレンツはこの問題について、進化論的に解決を提案した。進化の途上で脳は徐々に自然法則を転写していったのだろうというのである。

例えば、高い場所にある木の実をとる場面を考える。石を投げて実を地面に落とそうとすれば、何回か試して、だいたいどの力の加減でどのあたりに石がいくのか感覚でつかめるようになる。この時、自然法則を脳が転写している。また例えばその木の実を跳躍して取ろうとするなら、どのくらいの力加減でどの程度飛べるのか、学習する。助走して跳躍する場合も、大体どのくらいの加減で助走して跳躍すれば手が届くのか、人間の脳は学習する。

脳内の学習については個人ごとに差があり、先天的に内的感覚と自然法則が近い個体は、実をたくさん集められて、生存確率が高まり、生殖確率も高まる。そのようにして進化論的な選択が起こり、結果として、先天的に、内部感覚と自然法則が近い脳を持った個体が多くなる。
まだ進化の途中であるから、それぞれの個体の脳は、自然法則に近いものもあれば、呪術的世界に近い脳もある。自然法則と呪術的世界ではどちらが効率がよかったかと言えば、現代に近づくほど、自然法則が有利である。しかし長い間呪術的世界が優越していた。
また、自然法則といっても、その萌芽のころはたくさんある呪術的世界観の中の一つだったはずである。遠隔力として磁石は知られていたものの、重力となると、そんなものは感覚しようがない。エーテル説とかいろいろな珍説奇説があるなかの一つだったのだろう。しかし実際に試してみると、どの仮説よりも現実をよく記述していた。狩猟に有利だったので生存と生殖に有利だった。大砲を撃って命中させるとなるとお祈りよりも力学が役に立ったはずだ。
自然法則に近い脳は、数学の場面で、数式が美しいとか単純だとか、そのような感覚から、直感的にこれが真実に近いと選択する。
それは脳の中に模擬的な自然が作られていて、こんな感じで石を投げればどのあたりに飛ぶのかの予想ができる。なんども試せば修正できる。しかし、後天的な学習よりも、先天的に自然法則に近い内的感覚を持った個体が生存に有利だろう。したがって、世代を経過するごとに脳の内部にある自然は外部の自然に近くなる。

つまり、脳は進化論的に自然法則を写し取る方向で選択されて、現在がある。だから、脳が直感で、美しいとか単純だとか思う方向で真理に近づくことができる。

たとえば、a(b+c)=ab+ac であるが、なかには、自然な発想として a(b+c)=ab+c と感覚する人もいる。aは一回使ったからもう終わりだとか考えるのかもしれない。どちらが自然をよく説明するのかといえばa(b+c)=ab+acなのであるが、これをよくわかるように説明しろといわれても、どうしてもといわれれば何とか理屈はつけるけれども、そんな説明をするだけ無駄というものだ。自然科学に向かない脳なのだから、無理はしないで、得意な方面で活躍してもらった方がいい。歌がうまいかもしれないし、人の気持ちがよくわかるかもしれない。

進化の途上にあるので、いろいろな脳が発生して、その中の一部が、内部に自然法則に近い世界を持っているということである。
ということは、知性をそんなに信頼することもできないということになる。

数学の内部でも、論理実証主義の挫折があり、ゲーデルの話とかいろいろあって、論理が唯一正しいとも言いにくいし、「正しい」とは何かの議論にもなり、そこまで行くとやや不毛な議論となる。生存確率をあげるものとはならない。

知性中心でいうと、たまたま知性の優れた人が支配者になってしまい、それでは不満な人も多いし、知性が優れた人は感情的なリーダーになりにくい面もあり、いろいろ難儀である。感情面でのリーダーが集団をだましつつ、なだめつつ運営したほうが有利な感じがする。

人間は集団になるとしばしば知性よりも感情を優先した決定をしてしまう。

知性も感情も適用の限界や場面を考えないといけないが、そうしたメタの判断になると一層難しくなる。
知性と感情の適用範囲を考えるのも知性と感情なので、原理的に難しい。