下書き うつ病・勉強会#10 躁とうつの関係 混合状態

下書き うつ病・勉強会#10 躁とうつの関係 混合状態

ここまでいろいろと考えてきました。まだ説明できていない項目がいくつかあります。なぜうれしいのにうつになるのか。なぜ躁うつ混合状態があるのか。Post psychotic depression (精神病後うつ状態)と言いますが、統合失調症で興奮した後のうつ状態が知られています。うつ病でも躁うつ病でもないのにどうしてうつ状態がみられるのでしょう。今回はこの3つのうち、前の2つについて触れてみます。

うつ状態・うつ病が、悲嘆体験の延長とするなら、昇進うつ病とか引っ越しうつ病、また産後うつとかの場合のうつはどのようにして起こるのでしょうか。昇進すれば当面スケジュールは忙しくなると思いますが会社員としてはうれしいことに違いないのに、どうしてうつになるのでしょうか。引っ越しも、破産したりしていやいやながら引っ越しするのは悲嘆体験に属するのでしょうが、そうではなく、今までよりも過ごしやすい環境を手に入れるために引っ越しをしてうれしいのが基本ですから、こちらも悲嘆体験の延長とは考えにくいと思います。産後うつについては、ホルモンの変動などがあり、肉体的にも精神的にも妊娠出産はとても大変なここととはいえ、新しい家族ができて、悲しいはずがないと考えると、なぜ産後うつになるのか、悲しみの感情から出発することでは説明がつかないように思われます。まあ、いろいろな説明はありますが、悲しいことではないのになぜうつになるのかという問いです。

また、躁うつ病やうつ病の経過図を見ると、躁うつ病は上の山と下の谷があり、その間に平坦な時期があります。うつ病では谷がいくつかあり途中は平坦になっています。躁の方向に押し上げる上向きの力と、うつのほうに押し下げる下向きの力と二つの力があるように見えます。躁が観察されない純粋うつ病があるならば、純粋躁病もあるのでしょう。純粋うつ病のときは下向きの力だけが反復され、純粋躁病の場合には上向きの力だけが反復されるのでしょうか。この二つの力は独立した二つのもので、方向が逆ということになるのでしょうか。このグラフは二つの独立した変数のグラフとは思えないでしょう。変数は一つだろうと思います。マニーとうつは変数が一つなのか二つなのかという問題です。たいていの人は本質的な変数は一つだと考えると思います。

二つの独立したベクトルが周期的に変動するならば、このような経過図にはならないでしょう。

モデルとして、しばしば提示されるシナプス部分でのセロトニンの動きを考えましょう。うつの場合はセロトニンが少なくなっているのでセロトニンを増やしてあげればうつが楽になるというのが素朴な原点です。ではその反対のマニーはどうなるのでしょう。とりあえず、シナプス部分でのセロトニン分子による情報伝達が過剰になると考えると変数は一つですね。セロトニン一元論です。

たとえば甲状腺ホルモンが通常よりも多いかゼロか少ないかで症状は上向きの山になったり、下向きの谷になったりします。甲状腺ホルモン過剰と不足が同時に起こることは考えられません。マニーとうつのグラフはこれと同じです。

マニーがあればうつはない、うつがあればマニーはない。そもそもマニーとうつという二つの用語を使うこと自体が神経伝達物質モデルに合致していません。セロトニンが多いか少ないかの、セロトニン一元論です。
しかし実際にはノルアドレナリン系もドパミン系も関係していることを考えると、今度はマニーとうつの二分法では足りなくなります。セロトニン50、ノルアドレナリン25、ドパミン60、GABA20、・・・・・という具合でしょうか。
それぞれの領域に大雑把に用語をつけてもいいし、光を周波数で表示するように数字で表示してもいい。

いずれにしても、これまでとは考え方を変える必要がありそうだ。

これはマニーとうつを同じ場所において考えたものですが、マニーとうつは別の場所でセロトニンの増減が起こっていると一応考えてみたらどうなるでしょう。ベクトルの向きはちょうど逆だけれども、場所が違うから打ち消しあうわけではない。

躁うつ混合状態というものがあります。憂うつだけれども行動はすこし活発、という場合に自殺が実行されることがあります。憂うつが基本だけれどもイライラが強いとか。精神機能のある面はマニーだけれども、ある面はうつであるというものです。説明のために例を挙げると、たとえば思考、感情、意欲などと分けて、それぞれがプラスかマイナスかで評価するとしてみましょう。プラスかゼロでそろったならばマニーとかうつ状態です。領域の指定はないので、思考、感情、意欲などという分類はなくして、精神の各機能でプラス、ゼロ、マイナスを見て、プラスとマイナスが共存しているようならば混合状態というわけです。その場合、全体としてプラスの傾向とマイナスの傾向がちょうど半々ということもなくて、だいたいはプラスが多いとかマイナスが多いとなります。マイナスが多いけれどもプラスもあるという場合は、うつ状態における混合型、プラスが多いけれどもマイナスもあるという場合にはマニーにおける混合型となります。もし現在の症状としてちょうど半々でも、経過を参照すれば、いまは大きく見ればどちらの時期であるか分かります。その枠の中で反対の要素も見られるというのが混合状態です。

経過との関連を言えば、マニーとうつ状態が移行しつつあるときに、部分的にマニー、部分的にうつというようになり混合状態として観察されることが多いと考えられています。それは移行状態というべきだと思いますが一般には混合状態として分類されます。自殺の危険が高まる例としてあげられるのが、憂うつは続いているのに行動に移す力とか決断力とかが改善した場合です。

セロトニンなどの増減が場所によって違えば混合状態になりそうですが、そのように細かく、セロトニンが多い少ないが場所によって違うことがあるでしょうか。病気ではなくて、正常の神経伝達としてならば、一つ一つの神経について違うのは当然ですが、病気という場合、一本一本の神経ごとに病気になるのでしょうか、あるいはまだら模様のように、このあたりは正常よりも多くてこの辺りは少なくてというように領域として病気が起こるのでしょうか。また、そうした領域も独立ではなく、つながっていますから、近くで火事が起こっているのにこちらは寒いなどとは少し考えにくいのではないでしょうか。

またまだら模様になるのだとして、それならばなおさら、別々の二つのことが入り乱れて起こるとは考えにくいのではないでしょうか。二つの病理が独立に、違う領域で起こるのでしょうか。病理は一つだけれど、ある領域ではこんな風で、ある領域ではこんな風でと考えたほうが合理的でしょう。

躁病・軽躁病エピソードにおける混合型の診断にあたっては、基本はマニーだけれど、抑うつ気分、興味、喜びの著しい減退、著しい体重減少、あるいは体重増加、または、食欲の減退または増加、不眠または睡眠過剰、精神運動性の焦燥または抑止、疲労感または意欲の減退、無価値感、または過剰であるか不適切な罪責感、思考力や集中力の減退、または、決断困難がほとんど毎日認められる、死についての反復思考(死の恐怖だけではない)、特別な計画はないが反復的な自殺念慮、または自殺企図するためのはっきりとした計画などをチェックして診断します。ここでは副次的なことですが、無価値観あるいは罪責感と一項目にしているのは正しいのでしょうかと思います。


基本がうつであるとき、うつ病エピソードにおける混合型を診断するために、気分が異常かつ持続的に高揚し、開放的で、またはいらだたしい、自尊心の肥大: 自分は何でもできるなどと気が大きくなる、睡眠欲求の減少: 眠らなくてもいつも元気なまま過ごせる、多弁: 一日中しゃべりまくったり、手当たり次第に色々な人に電話をかけまくる、観念奔逸: 次から次へ、アイデア(思考)が浮かんでくる。具体的には、文章の途中で、次々と話が飛ぶことなども含まれる、注意散漫: 気が散って一つのことに集中できず、落ち着きがなくなる、活動の増加: 仕事などの活動が増加し、よく動く、これは破壊的な逸脱行動にも発展しうる、快楽的活動に熱中: クレジットカードやお金を使いまくって旅行や買物をする、性的逸脱行動などを評価します。

あるいは、マニーとうつは同一平面上の別の向きの話ではなく、脳の階層の違いがあるのではないかと考えてみましょう。症状一覧を見ても、それらが同一階層のものとは思えないものがあります。気分や意欲と睡眠、食欲とはカテゴリーが違うと思います。また罪責感については、精神のどの領域の話なのか明確ではないでしょう。抑うつとか喜びの喪失、興味喪失、焦燥、億劫、意欲減退、などはサルでも観察できると思います。しかし無価値観とか罪責感はサルを観察していて分かるものではないでしょう。ということは症状の階層が違うのではないでしょうか。

寄り道ですが、こうした高次機能については、人間の子供の成長を分析する方法があります。赤ん坊は言葉も知らないし、当然罪悪感というものは知りません。言葉を知った後で罪悪感形成につながるような感情や思考の原型はあるのかもしれませんが不明です。この辺りの事情を実際の子供の成長を追いかけて知ることができればひとつの進歩でしょう。


こう考えると、マニーの原因とうつの原因は階層の違うところで起こっているのではないかと考えられるかもしれません。

うつの診断範囲が広く、うつの患者が多いのは、診断基準のせいではなく、うつ病の概念が、マニーとは違う性格のものだからかもしれない。マニーは生物学的な現象に近いと考えられるかもしれません。症状を復習すると、気分が異常かつ持続的に高揚し、開放的で、またはいらだたしい、自尊心の肥大: 自分は何でもできるなどと気が大きくなる、睡眠欲求の減少: 眠らなくてもいつも元気なまま過ごせる、多弁: 一日中しゃべりまくったり、手当たり次第に色々な人に電話をかけまくる、観念奔逸: 次から次へ、アイデア(思考)が浮かんでくる、具体的には、文章の途中で、次々と話が飛ぶことなども含まれる、注意散漫: 気が散って一つのことに集中できず、落ち着きがなくなる、活動の増加: 仕事などの活動が増加し、よく動く、これは破壊的な逸脱行動にも発展しうる、快楽的活動に熱中: クレジットカードやお金を使いまくって旅行や買物をする、性的逸脱行動。以上のだいたいが身体レベルのことで、外部からの行動観察でも知ることができるのではないか。自尊心の肥大というのは本人に言葉で聞かないと分からないですが、気が大きくなる、慎重さや控えめな気持ちが失われると言い換えると行動観察の範囲に入ってくるのではないでしょうか。
うつ病については、抑うつ気分、興味、喜びの著しい減退、著しい体重減少、あるいは体重増加、または、食欲の減退または増加、不眠または睡眠過剰、精神運動性の焦燥または抑止、疲労感または意欲の減退、無価値感、または過剰であるか不適切な罪責感、思考力や集中力の減退、または、決断困難がほとんど毎日認められる、死についての反復思考(死の恐怖だけではない)、特別な計画はないが反復的な自殺念慮、または自殺企図するためのはっきりとした計画、と並べてみると、無価値観や罪責感は外部からは観察しにくい。本人の言葉によるしかない。またここには挙げられていないが心気妄想や貧困妄想を考えると、サルを観察して分かることではない。だいたいで分類すると、食欲睡眠は下位、興味、喜びは中位、興味があるらしいとか喜んでいるらしいとかは観察できるでしょう、無価値観、罪責感は上位となると思います、本人の言葉で語ってもらうしかない。進化論的に言ってそれぞれの形成の時期が違うでしょう。それに応じて、脳の部位も下位から上位まで異なるわけです。

これはどうしたことかと言えば、一つには診断基準が悪いのでしょう。原因に迫る考察ができていない。しかし一つには、うつ病という悩み方は、マニーという悩み方と次元が違っていて、うつ病が高次の悩みで、マニーは低次の悩みだともいえるでしょう。カテゴリーエラーと言えるのではないか。したがって、この二つを同じグラフに書いて、Y座標の上に行けばマニーで下に行けばうつというのはおかしい。Y座標の上に行くと象の数で下に行くと動物の数とか、そんな感じと言えばどうか、たとえになっているかなっていないか。

しかしセロトニンを増やす薬でうつが治る一方で、マニーが誘発されることは確かに観察されています。言葉で言えば、うつが治りすぎて正常を通り越してマニーになると言えるかもしれません。これは一元論的です。
ところが抗マニー薬が効きすぎてマニーから正常を通り越してうつになるという報告はあまりないと思います。この辺りの非対称も不思議です。あとあと説明します。

サルの話で思い出しましたが、少し脱線します。昔、サルに実験的に神経症を作ろうとした話です。サルに円または楕円を見せます。そしてサルにそれが円か楕円か答えてもらいます。正しければ餌が出る。正しくなければ電気ショックで不快な思いをする。これで慣らし運転をした後で、楕円を円に近づけていきます。楕円と円はだんだん区別しにくくなります。サルは餌は欲しいし電気ショックは嫌だしで悩みます。なんとかコツを見つけようとサルは頑張るのですが、さらに見分けのつきにくい微妙な楕円を見せます。無限に難しくできるので、サルは神経症になるという実験です。昔の話ですから、実際はどうだったか分かりませんし、現在どのように評価されているかも微妙なところですが、人間の場合のノイローゼのたとえ話としては分かりやすいのではないでしょうか。

たとえば職場で、部下の立場からは上司の判断基準の内容がよく分からないケースを考えます。自分がどうすれば叱責されるか褒められるか、実際には決まった基準はなく、上司の気まぐれ次第としましょう。しかし部下にすれば、上司に何か基準があるけれども自分が至らないから分からないのかもしれないと自分を責める。そうすると楕円サルと同じような状況ですね。自分なりに努力するがちっとも効果が出ない。次はどちらに出るのか分からなくて自己無力感が大きくなる。

たとえ話として、サーカスの象の話があります。像の子供は小さいときにサーカス団にきて、鎖につながれていた。逃げようと思って必死にあがいたが無駄だったので、しばらくして諦めてしまった。その後成長した像は、鎖を引きちぎるくらいの力はあるはずなのに、鎖を引きちぎるという発想がそもそもないようだった。

またこんな話もよく出されます。水槽にカマスという魚を入れて、半分のところに透明な板を入れて仕切る。カマスのいる場所の反対側に餌を置く。するとカマスは餌を食べようと何度もトライするが餌には到達できないことを知って、諦める。そのあとで透明な板を取り去る。そうしても、カマスは餌を食べない。そらにその状態で別のカマスを入れると、新しいカマスは平気で餌を食べる。するとそれをまねして、元居たカマスも餌を食べるようになる。

像の話もカマスの話も、本当かなと疑いますが、たとえ話ですから、それでいいとしましょう。学習性無力感の例です。

たとえば家庭で、妻が夫に根拠のない場当たり的な攻撃を言い続けるとします。夫は自分がどうすれば妻からの攻撃を防ぐことができるか考えますが、どうやっても駄目だと思い知ります。そのとき夫は楕円サルと同じで、自分がどんなに努力しても自分の人生を救うことはできないと発見し、気まぐれな電気ショックを受け入れます。
脱線でした。次は躁状態先行仮説を説明します。(つづく)