「犀の角」のようにひとりで歩め

“この「犀の角」のようにひとりで歩めという教えは、釈尊の考えを象徴する重要な言葉だと言った人がいます。独自な哲学者、鮮烈な行動者の鶴見俊輔さん(1922年生まれ)です。『かくれ仏教』(ダイヤモンド社、2010年刊)という語り下ろしの本にあります。若い友人にその本を教えられ、読み始めてその説にあい、「なるほど」と思いました。僕の文章のどこかでそのことに触れようと思っていましたので、ここで使わせてもらいます。 鶴見さんは、インド人の宗教学者、アーナンダ―・クーマラスワミーさんの『ブッダ伝』を読んでいて感銘を受けたそうです。その感銘のひとつに「犀のように一人で歩め walk alone like a rhinoceros」という言葉があった、と書いています。話は次のようなことです。 アフリカ犀の角は二本だがインド犀の角は一本。その角は肉の塊だからそれほど硬くない。それで闘争の武器にはならない。だからか、あまり闘わない。「だが、体はでかいから、ほかからつっかかってこない。孤独のままずっと一人でのこのこ密林を歩いている。二五〇〇年前には、いまと違ってインドの森の中にたくさんいて孤独の歩みを続けていたらしい。それを釈迦牟尼は見ることがあって、ああいう風に生きるのがいいというイメージを持ったんだ。」(16頁) 実は、僕が『ブッダのことば』を読んでいて、「犀の角のように独り歩め」を、出家修行者はひとりでどっしりと目標に向かって歩めといった意味だと受け取っていました。中村先生の語註にも次のようにあります。「『犀の角のごとく』というのは、犀の角が一つしかないように、求道者は、他の人々からの毀誉褒貶にわずさわされることなく、ただひとりでも、自分の確信にしたがって、暮すようにせよ、の意である」と。 ところが鶴見さんが読んだ本には別のことが書いてあって、「そうだ」と思ったというのです。”

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“犀の角のようにただ独り歩め (スッタニパータ「蛇の章」) 『犀の角』一切の生きものに対して暴力を加えることなく、一切の生きもののいずれをも悩ますことなく、また子女を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。 交わりをした者には愛恋が生ずる。愛恋にしたがってこの苦しみが起る。愛恋から患(うれ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。 子や妻に対する愛著は、あたかも枝の茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものによりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。 あたかも林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、智ある人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。 同伴者の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。ひとの欲しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。 同伴者の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子女に対する情愛 (pema) は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。 四方のどこにでもおもむき、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐怖することなく、犀の角のようにただ独り歩め。 出家者でありながらなお不備の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女に執心すること少く、犀の角のようにただ独り歩め。 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを棄て去って、在家の束縛を断ち切って、勇者はただ独り歩め。 もしも汝が、賢明で、協同し律儀正しい明敏な同伴者を得たならば、一切の危難にうち勝ち、こころ喜び、念いをおちつけて、かれとともに歩め。しかしもしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得ないならぱ、あたかも王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。 われらは実に朋友を得る幸を讃称(ほめたた)える。自分よりも勝れ或いは等しい朋友には親しく近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。 金工がよく仕上げた二つの輝ける黄金の腕輪が一つの腕においては相打つのを見て、犀の角のようにただ独り歩め。 このように二人寄っているならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心を攪乱する。欲望の対象にはこの患(うれ)いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。 これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。 寒さと暑さと飢え歩渇(かつ)えと風と太陽の熱と虻と蛇と、―― これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。 あたかも肩がよく発育し斑紋ある巨大な象が、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩するように、犀の角のようにただ独り歩め。 集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。 相争う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧を生じた。もはや他のものに指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。 貪ることなく、詐ることなく、渇することなく、(他人の徳を)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、一切世間において愛執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。 義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽って怠惰な人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。 博学で真理をわきまえ高邁・明敏な友と交われ。いろいろとためになることがらを知り、疑惑を除き去って、屋の角のようにただ独り歩め。 世の中の遊戯や娯楽や快楽に満足を感ずることなく、心ひかれることなく、装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。 妻子も父母も、財宝も穀物も、親族やそのほかすべての欲望までも、すべて拾てて、犀の角のようにただ独り歩め。 「これは執着である。ここには楽しみは少く、快味も少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る鉤である」と知って、賢者は、犀のようにただ独り歩め。 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻って来ないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。 。俯して視、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防ぎ、こころを護り、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に〉焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。 葉の落ちたバーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。 諸々の味を貪ることなく、欲求することなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。 こころの五つの覆いを断ち切って、すべての随煩悩を除き去り、たよることなく、愛念の過ちを絶ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。 。以前に経験した楽しみと苦しみとを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と笑らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。 最高の目的を達成するために努力策励し、こころ怯むことなく、行いに怠ることなく、毅(つよ)い活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。 独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法のとおりに行い、諸々の生存における患いを確かに知って、犀の角のようにただ歩め。 愛執の消滅を求めて、怠らず、唖ではなくて、学問あり、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。 歯牙強く百獣の王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修し、一切世間に背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命を失っても恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。 ひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。 岩波文庫『ブッダのことば』-スッタニパータ-第1 蛇の章 3、犀の角(16~21頁)”