院内ディスカッションのための素材として採録
日本の若者が深い友人関係を築けなくなった「決定的理由」
冷たい友人関係が蔓延している
2013年の世界青年意識調査では、日本の若者の悩みの相談相手は「母」が「近所や学校の友だち」を上回っている。同様に、悩みの相談相手として友達の割合は減少し、母親は増加している、という調査結果が複数ある。40~50代以上なら「マザコンか」と感じ、若年世代の友人関係に対して何か言いたくなる人もいるだろう。
ところがその40~50代が10代だった1980年代後半にはすでに、主に心理学において、深く関わろうとしない友人関係の台頭が指摘され、当時の年長世代の一部はそれを問題視していた。
「日本の若者」は30年前から深い友人関係を築けないまま今日に至るのか。だとすればその背景には何があるのか。あるいはこの間、どんな変化があったのか。
読売新聞と朝日新聞の記事、特に人生相談などの読者からの投書欄をつぶさに辿って「友人」観の変遷を研究した『友人の社会史 1980-2010年代 私たちにとって「親友」とはどのような存在だったのか』(晃洋書房)の著者である石田光規・早稲田大学文学学術院教授に訊いた。
友情と恋愛に熱狂した1980年代
――『友人の社会史』では80年代以降のことが主に扱われていますが、70年代までの友人関係とはどう異なるのでしょうか。
石田 70年代頃までは「この人たちと付き合わなければならない」という関係性がはっきりしていました。たとえば血縁・親族関係や終身雇用を前提とした職場の関係です。地域の関係は60年代までは非常に強く、70年代には揺らぎ始めますが、地域が衰えていくのとパラレルに会社での関係が強くなっていきました。
かつての「友人」関係は、このように離脱が容易ではない固定的な関係性にかなりの程度埋め込まれていた。「あの人とはずっといっしょにいたし、友人と言えば友人なのかな」くらいの感覚だった。
80年代には人間関係がそうした様々なしがらみから解き放たれていきます。そのなかで「自発的に選んだもの」としての「友人」が浮上してくる。ただし、まだまだ60、70年代的な関係性も色濃く残っていて、だからこそ余計に、そのわずらわしさがない魅力的なものに見えていました。
――1980年代と「友情」と言えば、1968年に創刊された「週刊少年ジャンプ」が「友情・努力・勝利」を掲げ、80年代には爆発的に部数を伸ばしたことが想起されますが、何か関係がありますか?
石田 自由で自発的な友人関係というものが世間の中に浸透していった80年代に『ジャンプ』は部数を積み上げていきました。血縁や地域とのつながり、あるいは会社の差配で決まる上下関係とは異なり、感情的な結びつきによって作られる人間関係が80年代には社会的に前面に押し出されてきます。その典型が「友人」と「恋愛」です。
当時の社会調査によれば、80年代前半には、婚前交渉を許容する人はまだ3割程度しかいなかった。結婚を前提とせずに付き合うことは比較的珍しく、「恋愛」と「セックス」と「結婚」はあまり離れていなかった。それが80年代後半にはトレンディドラマが流行し、恋愛のための恋愛がブームになる。それと少年マンガなどにおいて友情がフォーカスされる時期は重なっていた。
そうした新しい「自由な恋愛」「自由な友人関係」は、70年代までの固定的で息苦しい関係よりも魅力的に見え、自発的な結びつきゆえに「真に心を通い合わせることができる」という幻想をまとっていた。社会調査を見ても、友人関係に対する満足度は上がり、「友人といると楽しい」という意見が増えていました。
近年、「家族」回帰が起きている理由
――しかし日本では、現在40~50代の団塊ジュニア世代が中高生だった80年代後半からすでに「あっさりした関係を望む」「親友でも本当に信用できないと感じる人が増えている」という調査結果があり、90年代以降もその傾向は続いています。つまり「最近の若者」が友達関係をうまく築けない状態が、30年続いていることになります。背景には何があるのでしょうか。
石田 70年代までの友人関係は会社や地域の付き合いから生まれていたため、「いつこの友情が解消されるかわからない」という不安はありませんでした。ところが80年代以降、「自由で自発的なもの」に友人関係は変わり、関係を維持するために要求されるコミュニケーション技能が増えた。自分から働きかけなければならず、失敗すれば失われる関係になった。そうなればうまくいかないことも増え、あるいは及び腰になるのは当然です。
さらに90年代にはポケベル、PHS、携帯電話といった情報通信端末が普及し、友達同士が空間を共有することすら必須ではなくなりました。なんとなくグループで同じ場所に溜まっているから友達だろう、みたいなことすら減っていく。言いかえれば、さらに積極的に振る舞わないと、友人関係が維持できなくなっていった。
それが加速して負の面が顕在化していくのが2000年代以降です。各種社会調査上でも友人関係に対して抱くのは80年代半ばまでの「開放的で楽しい」という感覚よりも、「付き合っていくためには気を遣わないといけなくて心配」という側面が強くなっていく――この傾向は今に至るまで続いています。
だからこそ、近年では悩みがあったときに友人ではなく家族に相談している人が増えていますし、一部では恋愛においても「家族になるなら付き合う」というかつての恋愛観への回帰が見られます。
――友達関係は不安定だし積極的に働きかけないと維持できないけれども、家族は気を遣わなくても壊れにくいので、家族回帰をしている?
石田 そうですね。「人それぞれに自由に人間関係を作れば良い」と言われても、簡単にはできません。努力しないと友人はできないし、かといって全然いないと体裁が悪い。今や難しく息苦しいものになっています。実はそれは恋愛もそうだし、職場の人間関係だって、転職や有期契約が当然の流動的なものになっています。離脱しやすく、壊れやすい関係性ばかりになった。すると何かあったときに相談する相手としてラクな選択肢がなかなかありません。ゆえに、家族がベースのものに戻っていく。
学生に訊いても、「親に悩みを相談するなんて気恥ずかしい」という感覚はなくなっています。むしろ、家族になら自分のマイナスな面も見せられるけれども、友達には自己を開示しづらいから親の方が話しやすい、と。
「親友」という幻想
――新聞に書かれた友人に関する記事を辿ると、90年代半ば以降、文化・芸術・芸能やスポーツの中で報じられる機会、あるいは劇や小説といったフィクションで使われる頻度が増えるが、それは現実の友人関係が困難だからこそ、願望が物語の中に投影されている、と指摘されていましたよね。ヨーロッパで中世に騎士道物語が流行し、そこで描かれた恋愛観に現実の人間が影響を受けたのと同じように、今では純粋な友情は物語の中にしかなく、人々は物語を通じて作られたイメージを現実の人間関係に求めるようになっている、ということでしょうか。
石田 メディアがあるべき人間関係の理想の姿を映し出し、それを読者も望んでいると捉えるならば、そう言えると思います。象徴的なのは友情を強調する高校野球に関する新聞記事の顕著な増加です。今では当たり前になりましたが、80年代までは決して多くありませんでした。
また、私のゼミの学生の聞き取り調査によれば、学生達は友人関係に対して高い理想を持ち、「でも、そのような人はいないから寂しい」と感じています。ではそのために積極的に行動しているのかといえば「自分を晒すと拒絶されるかもしれない。だからできない」。しかしお互いに自己開示しないと何でも言い合える理想の関係は手に入らない――そんな厄介なジレンマの中にいます。
「友人」はこの不安定な社会のなかでなくてはならないもの、あると良いものと捉えられている。けれども「親友」については自信を持って「いる」と言える人はおそらく今や非常に少ない。幻想に近いものになってしまっています。
「人それぞれ」で処理する冷たい距離感
――90年代中盤以降生まれのいわゆる「Z世代」の友人関係の特徴は?
石田 物心ついたころから友人関係がデジタルに可視化されているのが特徴的です。友達やフォロワー、「いいね!」の数にしろ「グループ」にしろ、SNS普及以前までは明確な線引きはなかったものが、すべて目に見えます。自分がどの輪の中に登録され、送ったLINEに対して誰の返信がいつ来たのか/来なかったのか、あるいは、ある友人と別の友人が遊びに行っているのに自分は誘われていなかったことまでが見えている。これまでグレーゾーンで処理してきた部分が露骨に見え、線引きされてしまう。
――スマホを使ったコミュニケーションでは、友達同士でしていたつもりの秘密のやりとりが、仲違いなどをきっかけに第三者に流出するかもしれない可能性もありますよね。
石田 ですから関係を維持するために、より本音が出しづらくなり、より気を遣う機会が増えています。しかも今の10代~20代前半は中高時代にすでにスマホを持っていて、それがなかった時代がどんなものだったのかを知らない。人とオンラインでつながっていない状態を想像すること自体が難しくなっていて、こまめに連絡を取っていないと不安を感じる。それでいて、不用意に他人の事情には立ち入りません。
――というと?
石田 大学で教えていて感じますが、若い人は「人それぞれ」という言葉が好きです。誰かが何かを言ったりやったりしたことに対して「人それぞれだからね」という処理の仕方をする。これは他人の意見や多様性を尊重しているようでいて「私は関わりません」と言っているのに非常に近い。議論してもらっても「人それぞれだから」で終わってしまって意見が深まらない。
ほかにも「困ってるみたいだから、本当だったらやってあげたほうがいいんだろうな」と思っていても「人それぞれだから」踏み込まない。たとえば「サークル、やめようと思う」と言われたとしても、本人が理由を言わないかぎりは深く聞かないし、引き留めない。淡泊です。逆に何か相談したい、支援してほしいと思っている側も友人関係を維持するためにこそ遠慮して事情を話さず、助けを求められない。
「人それぞれ」という距離の置き方が主流になってしまっている状態では、本音で意見を交わすことも、ケンカをすることもとても難しい。関係性の修復が約束されておらず、あっさりと切れてしまうわけですから。
深い人付き合いの不要な社会を作った大人たち
――「最近の若い人間は……」と思っている中高年に向けてひとことお願いします。
石田 若い世代は友人を作ることがとても難しくなっています。そしてそれは大人が作ってきた環境が原因です。
たとえば僕は団塊ジュニア世代ですが、僕らが学生のころまでは結婚できない人生を想像する人はまだ少なかったし、子どものころには就職氷河期が来て仕事に就けない人が大量に発生するなんて思いもよらなかった。それは一方では窮屈だったかもしれないけれども、そのかわりもう一方では安定していると感じられた。
しかし今では若者には将来像は不安定なものに映り、恋愛・仕事・友人……あらゆる人間関係を得るために何かしら「自分を磨け」と言われ、語学や資格の勉強からコミュニケーション能力、身だしなみまで、さまざまな場面で自分の実力を証明させられ続ける社会のなかにいます。そうなると弱い部分はとてもじゃないけど他人には見せられない。
年長世代からすると若者は「人付き合いが良くない」とか「腹を割って話ができない」ように見えるかもしれない。でも深く人付き合いしなくても回る社会をそもそも我々はつくってきたわけです。そしてその流動的な社会は、誰かと人付き合いをするために、かつてよりもはるかに人に能力と負荷を求めるものでもある。ですからその最先端に生きている若者が、複雑かつ希薄な関係性のなかで生きていくための振る舞いをするのは仕方がない。上の世代には理解しがたいものに見えたとしても、そういう社会を“われわれ自体が作ってきた”ということを、せめて認識してほしいと思っています。