もしも溺れるならば誰かに落とされるのではなくて、自分から溺れたい

新聞からの採録。
もしも溺れるならば誰かに落とされるのではなくて、自分から溺れたい
とか言っているんですが。
いずれにしても、政治の限界があるようだ。
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 今年の夏はどこにも行けなかった。読書でもしようかと思っていたところに「大正史講義」という本が届いた。編者の筒井清忠帝京大教授から「今起きていることとほとんど同じことがこの時代に起きていることに気づかれ、どう考えるべきかのヒントになると思います」とのメッセージが添えられて。

 秋には総選挙もあるし、長い時間軸で物事を考えるのにちょうどいいかもしれない。そう思って「文化編」と共に手に取った。

 大正時代は15年の短期間に出来事がてんこ盛りだ。

欧州を発火点に第1次世界大戦が起き、中国では明治末に起きた辛亥革命が展開。その中国に日本は21カ条の要求を突きつけた。

 国内では護憲運動や普通選挙運動、米騒動が起こり、その様子は大正デモクラシーと呼ばれた。

 関東大震災が発生、不穏な空気のなか、朝鮮人虐殺や大杉栄殺害があった。大正末期には普通選挙法と同時に治安維持法も公布される。人々の生活をみると、百貨店や映画が興隆し、消費文化が生まれる。

 ……とここまでは学校で習った日本史の復習のような気分だったのだが、私が一番興味を引かれたのは、筒井教授の一文「大正時代は一言で言えば、大衆の登場が始まった時代である」だった。政治にも文化にも経済にも、「大衆」が大きく影響を与えるようになったのだ、というのだ。

 それが上記のさまざまな運動・騒動であり、背景には経済力をつけた中間層が育っていたのだと。

 ふむふむ、確かに。それは民主主義の進展プロセスだろうし、だから大正デモクラシーなのだろうという納得感と共に、戦前の日本では民衆は自由な言論活動はできず、弾圧され、虐げられていたのでは?という疑問が湧いてきた。

 そこで筒井教授に話を伺った。大正時代って大衆が政治的にも活発に活動した、いわば下からの社会運動の時代……なんですか?

 「戦前の日本がね、自由がなくて特高警察やら何やらで抑圧されていたというイメージがありますけど、確かにそういうところもありますが、そればかり言われるようでは一面的な見方でしかないですよ。山田洋次監督の映画、あったでしょう、見ましたか? 少し時代は後ろにずれますが」

 「小さいおうち」(2014年公開)だ。私もその映画のことを思い出していた。昭和11年の東京。郊外の赤い三角屋根のモダンで小さな一軒家に住む家族の暮らしが描かれる。女性たちは制約があるなかでもお買い物やおしゃれを楽しんでいた。へえ、この時代ってこんなんだったんだ、と私は映画館で意外に思ったのだった。

「暗い時代」は一面的

 「そうです。暗いばかりではありません。大正時代は大衆の時代として始まったんです。『大正政変』という第1次護憲運動で、数万の民衆が帝国議会を取り囲み、桂園体制(立憲政友会を率いた西園寺公望と官僚に支えられた桂太郎が交代に政権を担当した)が終わりを告げたことが幕開けでしたしね。その後の山本権兵衛内閣や若槻礼次郎内閣もスキャンダルで倒れている。ブームやスキャンダルで政治が動く、ポピュリズムはこの時代に始まったんです。マスコミが大きくあおったわけですが。民衆が政治に大きな影響力を行使し、だから普通選挙も実現したんですよ。普通選挙が始まったあとも投票率は高かったですし」

 私からみると女以外はね、と毒づきたいところだが、なるほど、と一応うなずいたうえで考える。

 多くの人々がいわば自分ごととして政治を考えるようになったのだから、政治が身近で、民主主義のあり方として望ましいですよね? でも、日本はその後、日中戦争が始まり、太平洋戦争、そして敗戦の悲劇に至るわけで。これって「軍部の台頭で」とか「軍部に引っ張られて」とか一言で言ってしまいがちですが。

 「違いますよ。男子だけですが普通選挙だったんですから。大衆が自分で選んだ面が大きいんです。マスコミの責任も大きいですが」

 詳細は本(筒井教授著「戦前日本のポピュリズム」にも詳しい)に譲るが、大衆受けを狙ったポピュリズム政治やスキャンダル合戦が、結局は政党政治への幻滅を呼び、やがては軍部が中立的だと期待が寄せられ、政党が解散して大政翼賛会へとつながっていくことになるのだという。

 政治記者のくせに今頃そんなこと言っているのか、と思われる向きもおられることでしょう。その通りです。すみません。でも今さらながら、私は打ちのめされたような気分になった。

なぜなら選挙のたびに「みなさん投票に行きましょう。政治に関心を持ちましょう。投票に行かないで政治に文句を言う資格はありません」と書き続けてきたから。でも、人々が政治に大いに関心を持った結末を歴史が教えてくれているのだとしたら……。

同調圧力、当時もいまも

 もう一つ、本の中で筒井教授が述べている言葉で私が気になったものがあった。ショックでふらついたまま私は聞いた。「同調圧力」について言及されていますよね?

 「熱狂やブームは大衆の同調圧力ともいえます。大正時代以降には、それが大衆からエリート層への圧力ともなって、エリートが抗しきれなくなっていくわけです」

 ポピュリズムやブーム、同調圧力は今の日本政治や社会を語るキーワードでもある。人々は政治への関心が高いとはいえず、でも何かのブームが起こるとそちらにわっと動く。SNSの発展で同調圧力はより強まっている。日本政治はこの大正史から何を学べばいいのだろう。

 混乱し続けている私に教授は言った。「ワイマール憲法で有名なドイツのワイマール共和国が、議会制民主主義のなかでナチスの台頭を許していく時に、オーストリアの法・政治哲学者ハンス・ケルゼンは言いましたよ。『デモクラシーの船が人民自身による投票の多数派により沈み行くとき、デモクラシー擁護論者は、いったんそれとともに再浮上を期しつつ沈み行くしかない』」

 静かに語る教授の言葉を聞きながら私は思った。

 もちろん溺れないように頑張るにこしたことはない。頑張りたい。でも、もしも溺れるならば誰かに落とされるのではなくて、自分から溺れたい。そうやって自ら選んで沈んだら、いつか必死にもがいて浮かぶ瀬もあるかもしれない。だからやはり政治には関心を持って、投票に行くしかない。

 誰かのせいにするのではなくて、自分の責任で。そのほうがどんな結果がやって来ようとも溺れようとも、納得度合いが高いというものではないか……たぶん。

 まだもやもやはしながらも、それが、大正時代よりもはるかに自由で、参政権を持つようになった女性の一人の私が得た今のところの「ヒント」だ。