客観的素朴実在主義的現実ーーー現象ーーー主観的印象
というような一連のスペクトラムを考えることができる。
素朴実在論的現実とは、たとえばニュートン力学であって、
観測者がいるとかいないとか、そんなことも関係なく、
物体は実際にそこに存在していて、ニュートン力学に従って、運動する。
人間はそれを観測して、たとえば大砲が相手の軍艦に命中したとか、
ロケットが計算通りに軌道に乗ったとか、考えている。
(実際、ニュートン力学は大成功した。)
しかし人間の感覚には限りがあり、五感のほかにはなく、
数学で計算した結果の確認も、五感に頼るしかない。
物体の存在が、人間の五感によって感受されるだけの属性しか持たないという根拠は全くない。
人間は、自分たちに感覚できる範囲で、物体の存在を仮定して、そのうえで、法則を考えているに過ぎない。
だから、人間は、「ものそれ自体」の全体を感覚することはできない。ものの一部分を、人間の感覚の仕方でとらえているに過ぎない。
すると、それは客観的現実というべきではない。人間が感覚している、ものの一部であり、それを「現象」と呼ぶ。
現象は、ものそれ自体の存在の仕方と、人間の脳の感覚の在り方との混合物である。そうした現象の在り方を研究し、物理学とも心理学とも別の学問を作ろうとしたのが現象学である。
客観的現実と主観的現実の中間にあるもの、客観的現実と、個人の脳の構造が作り出すもの、それが現象である。
例えば、人間がポストを見ている。
ポストがどのような存在であるか、人間は知り尽くすことができない。
ただ赤いとか、鉄だとか、言えるだけである。
そして個人A,B,Cの3人はそれぞれ違った感覚を持つかもしれない。
それがれぞれにとっての「現象」である。
客観的現実が一つであるならば、各人における「現象」の違いは、脳の構造の違いに原因があるに違いない。
そのように考えてみると、客観的現実と、各人の感じている「現象」を観察すれば、各人の脳の構造の違いを考察できるのではないか。
そういう学問が現象学だと私は思っている。これは勝手な考えである。
フッサールとかメルロポンティはいろいろ言っているようだが、難しいし、勉強したほどには、物事の理解は進まないように思われる。志向性とかノエシス、ノエマ、エポケーなどを考えるとして、さして得があるようにも思えない。
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一方で、人間の主観もある。それは現象から与えられた感覚もあり、幻覚もあり、錯覚もあり、そのようないろいろなものの混合体である。
心理学という言葉はここのところの学問を指すだろう。
個人的主観もあれば、集団内の共同的主観もある。集団の中で教育されて共有された主観は、それ自体で客観的現実と同程度の影響力を持つので、心理学としては研究に値する。
たとえばマスコミが事実無根のことを言い立てて、民衆の心理を操作するのはこの例である。実際に民衆は操作されるので、外側から見ていると不思議である。
天動説と地動説を考えてみてもよい。
本来、脳の構造などはいろいろばらばらであってよいはずなのに、そんなことはなく、かなりの程度に共通点がある。
たとえば指は5本で、腕は2本で、などという程度の共通点である。
指は6本でも別段支障はないように思うが、進化論的な経緯があって、5本に落ち着いている。
異常心理学という分野があるが、何をもって異常と判定するのだろう。
指が6本あるのは、いじめの対象にはなるだろうが、楽器を弾くにはとても有利かもしれない。その程度のことであって、異常というには不足だと思われる。
医学で異常を語るには顕微鏡で細胞の変化が実証されることがまず第一であるが、6本の指がある場合に、どこにも細胞の異常はないだろう。
幻聴が聞こえるのは異常だと定義するから異常になるだけであって、脳の構造によっては、幻聴も聞こえるだろう。不都合があるかもしれないが、それは人間を死に至らしめるがん細胞などとは性質が異なるだろう。
幻聴の原因を光学顕微鏡なり、電子顕微鏡なりで、確定した人はまだいない。そのような異常ではないからだろう。
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こうして眺めてみると、
素朴実在論的客観的事実ーーー現象ーーー共同体に共有される主観ーーー個人的主観
というように並べることができるだろう。
ニュートン力学ほど客観的で正確ではない。
共同体に共有される主観ほどでたらめでもない。
その中間程度にある「現象」を研究し、法則を取り出すことができれば、成功だと昔の人が考えたのだと思う。
そのポイントは、先入観を排除することだろう。たとえば地動説を前提としないことだ。
そういうことなら、難しい言葉を使わなくても、言えることだ。
素朴実在論で、人間が同じことを観察するのは、客観的現実が共通であり、しかも、脳の構造が共通であるから、結果として、感受する現象が共通となる。
そこに人間の脳の普遍の構造があるはずである。そして、そこから外れて、個人的な変異を示すものがある。その一部は精神病と呼ばれ、異常心理と分類される。地動説と天動説の入れ替えのようなこともあるかもしれない。パラダイムシフトである。