“精神科医にして心理学者で、『夜と霧』という著書でも有名なヴィクトール・E・フランクルは、第二次大戦中、アウシュビッツの収容所に捕虜としてとらえられた経験があります。
言葉では語り尽くせぬほど過酷な環境の中で、彼は考えます。自分は人類の誰も経験したことのない壮大な心理実験の渦中にある。いつかこの収容所を出て、いま自分が体験していることを、オーストリアの大学の教壇に立ち、後世の人々に伝えていこう。どれだけ外側の自由を剥奪されたとしても、内側の自由を奪うことは何人にも決してできないということを。それが紛れもない事実であることを今まさに自分は証明しようとしている、と。
その彼が遺した言葉があります。 Between stimulus and response there is a space. In that space lies our power to choose our response. In our response lies our growth and our freedom. (刺激と反応の間には、いくばくかの「間」が存在する。私たちはこの「間」の中で、自分の反応を選択する。私たちの成長と自由は、私たちが選ぶ反応にかかっているのだ)
つまり、刺激が直接、反応を引き起こすわけではない、とフランクルは言っているわけです。アウシュビッツという“刺激”も自動的に「苦しい」「つらい」「悲しい」という“反応”を引き出すわけではなく、刺激と反応の間にはスペースがあり、そのスペースの中で、どのような反応をするのかは全て個人が選ぶことができる、と。そして、どのような反応を選べるかがまさにその人の精神的なレベルを表象している、と。”
『“刺激”も自動的に“反応”を引き出すわけではなく、刺激と反応の間にはスペースがあり、そのスペースの中で、どのような反応をするのかは全て個人が選ぶことができる』・・・ですか。中学生の道徳の教科書ですね。
『刺激と反応の間にはスペースがあり』というのであれば、そのスペースの実態とはなんであるか、明示する必要がある。『どのような反応をするのかは全て個人が選ぶことができる』というあたりは、旧来の哲学の『自由意志』の話なんでしょう。その『スペース』に『自由意志』の解剖学的な裏付けがあるとでもいうのだろうか。いや、この文脈では、なければならないはずだ。しかしそんなものはどこにもない。ないものをぬけぬけと実在するかのように語るのはいかがなものだろうか。
昔から人間が素朴な実感として、またキリスト教的な思考習慣として『自由意志』を信じて疑わないが、しかしその素朴な実感を利用して、自由意志と『スペース』をトリックのように結び付けるのは科学ではない。実証的ではない。
フランクルが言っているのは科学の話ではなくて道徳と宗教の話なのだ。