認知の問題の一つ。客観的実在を人間は直接に感知することはできない。たとえば、ものを見るときは、色眼鏡をつけてみなければならないようなものだ。色眼鏡1.2.3の三種類があるとして、客観的実在に至るためには、その3つを平均すればよいのか、どれか一つを大きく信頼すればいいのか、確信が得られない。
人間がなにかを観察できるのは、色眼鏡をつけた状態で見えるものであり、それを「現象」と呼んでいる。色眼鏡をつけなければ見ることはできないのであるが、もし、色眼鏡をつけないで見たとすればどう見えるかと考える、それが「現象学的還元」という操作になる。現実にはどうすればよいのか、難しくて私にはわからない。
たとえばある出来事が起こったとき、情報が3つくらいに大きく分かれたとして、どれを信じたらよいのか。
声の大きな人を信じるというのも変でしょう?興奮しているだけだよ。
あるいは、お金のある人は宣伝できるから、多くの人がツイッターなんかで同じ意見を言うかもしれないけれども、それは資金力があるんだなと推定できるだけで、真実に至る道とも言い難い。
また、いつでも、多数派に反対する意見を言いたがる人もいるので、それも一種の色眼鏡だなと思うよね?
結局、みんなが興奮したり、主導権を握ろうとしていたり、そんな状況ではなかなか正確な分析はできないのだから、客観的実在はなにかについては、いったん留保して、現状でどのような意見があり、その根拠は何か、それらは時間が経過するにつれてどのように意見を変えているか、などを見守るしかできないだろうね。
色眼鏡だったら、いまつけているのは赤のレンズだから、見えているもの(現象)から赤を引き算すればいいとか考えられるけれども、人間の認知はもう少し思想とか感情に影響されるものであって、そのことについて、自分の考え方、感情の傾向はどうで、だから今考えて感じていることはどのような歪みがある可能性が高いとか、引き算をするのは難しいと思う。
難しいけれども、そのような状況において、どのようにして、別の考え方の可能性があるのか、別の感情の可能性があるのか、考えてみるのが、認知行動療法というものの一面だろうと思う。
一つだけの色眼鏡をつけて、見えたものに興奮してしまうのは、認知行動療法的ではない。