「沖縄ノート」大江健三郎。岩波新書F28。1970年。

「沖縄ノート」大江健三郎。岩波新書F28。1970年。
日本語の質としては大いに異質。これが筆者の看板でもある。小説ではこの流儀が多く、エッセイではやや少なく、講演会記録ではさらに少なくなる。
すらすら読み流されてしまうのは良くない、ごつごつとして読みにくく、なんだこの文章は、ということで、読者がすこし文章と格闘してくれれば、筆者の言いたいこともくっきりとしたイメージとして伝わるのではないかという作戦のようだ。
文章を頭から読んでいって、前の文章に戻らずに消化するには、意味のまとまりごとに、脳の一時記憶部分に格納し、理解出来たら、一時格納庫から消去する、そんな作業を繰り返すのであるが、文章の大きな構造として、主語と述語の対応は、一時記憶から消去できない。場合によっては、脳は処理しきれなくなる。その場合は、ペンで文章のまとまりを区切り、大きな文章の構造を表示すれば助けになるだろう。そうしなくても、二度目に読むときにはやや楽に読めるようになる。
グロテスクな文章との出会いを楽しみ、パズルを解くような気持ちで対処すればよいのだが、そうこうしているうちに、脳の一時記憶部分も容量が大きくなり、文章が終わるので緊張を持続することができるようになる。
新聞記者の書く標準的文章とは大いに異なる、日本語の一種の達成である。
関係代名詞に相当する「ところの」の多用など、はじめは読みにくいが、慣れの問題である。
筆者は手書きで書いていて、あとで推敲して、文章を大幅に読みにくく、ごつごつしたものに変貌させてしまうようだが、現代であれば、PCで書いて、どんどん推敲ができるので、こうした人工的な文章の技巧も、挑戦しやすいのだろうと思う。

記述の内容としては、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判で問題になった。大江・岩波書店が勝訴した。
吉田氏の国葬の話なども出てくる。