世界理解の「方法」を学ぶ

高校を卒業して、大学などで何かを学ぼうと思っているとして、何が大事だろうか。将来の職業や資格を考えて進路を選ぶのは妥当な選択である。生活が第一だ。生きるための方法である。職業訓練学校の意味である。
しかし一方で、勉強によって、自分が世界や人間を理解するためのどのような「方法」を手に入れるのか、考えてみたらどうだろうか。
勉強する前と、した後を比較すると、世界の見え方が明瞭になる、そのような勉強はどうだろうか。

たとえば宇沢弘文は、大学で数学を専攻し、そのあとで、経済・社会問題への関心から経済学を研究した数理経済学の専門家である。
数学が素晴らしい道具となり、その後の世界認識・探求に役立った。
数学は自分の発想や認識や推論を、現実と照合し、訂正する強力な道具である。
経済学の結論だけを学んでも、時代が変われば、また別の経済学が登場する。その場合に、数学という道具があれば、自分で考えることができる。
流行の経済学を学ぶより、数学を学んで道具を手に入れたほうが、人生全体としては実りが大きい。
まあ、遠大な話ではあるが。志は大きく持ったほうがいい。

そのような意味で、「方法」を手に入れる。

軍国主義の時代から、短い戦後民主主義の時代を経て、東西冷戦、アメリカ一極、そして中米の時代へと流れてゆくが、それぞれの時流に飲み込まれるのではなく、少し離れて、客観的な視点からものを考えられるようになったらいいだろう。
そのために考える「方法」が大切だろう。
マスコミも出版物もネットも時流に乗って商売しているだけが大半である。時代が変わればてのひらを返す。その様子を客観的に観察し測定できる人間でありたいではないか。