現代思潮社版『ロシア・フォルマリズム論集』シクロフスキー
「そこで生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかす必要があるためである。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義を持たないのである。」
ここで異化、明視などが語られている。
前半の、「石を石らしくする」とは、離人症の症状と反対のことである。
精神医学の用語でいう離人症では、たとえば「それが机であることは分かる。机が書き物をしたり、食事をしたりするためのものであることもわかる。この机がこの場所に置かれたのはいつのことで、誰が購入したのかもわかる。しかしながら、この机の机らしさが、生き生きとした机らしさが、いまは感じられない。そのことがとても苦しい」といった具合になる。
これとは反対に明視状態では、「机の机らしさが生き生きと生々しく迫ってくる」。
私の個人的な考えでは、離人症の発生は、脳内での、外的感覚と内的合成感覚の照合部位で、通常ならば、内的合成感覚が時間的に先に到着し、そのあとで外的感覚が到着し、両者が照合され、その結果、自分の動作に関することならば能動感、また自分の筋肉動作と関係しない感覚領域では生き生きとした感覚が生じる。逆に、先に外的感覚が到着し、あとに内的合成感覚が到着した場合、被動的に感じ、能動性が失われる、また生き生きとした実感の喪失の事態となる。
サルトルの『嘔吐』で描かれているのは、こうした生々しさの過剰であり、無意味の反対の意味の過剰である。
こうした異化や明視が自分自身の思考内容を対象として適応されると、神秘体験に近くなる。
人間は普段の状態でぼんやり過ごしていると、単に繰り返しを生きているだけの自動機械となってしまう。感覚は鈍り、世界と触れ合う原初の感動を忘れてしまう。
旅が人に愛されるのは、こうした自動機械状態を脱出し、原初のふれあいの新鮮さを取りもどすことができるからである。
たとえば、旅で代表的なパリにしてもバリ島にしても、さこで日常生活を営んでいる人にとっては、珍しいものも感動も何もない、ただの繰り返しの知覚があるだけである。
パリの人もバリ島の人も、そのような日常から離れて、東京に来たなら、旅の作用として、感覚の新鮮さを取りもどし、世界を生き生きと知覚するはずだ。
旅行しなくても、旅行した気分になって散歩のときに周囲を見回してみる。カメラをもって散歩してみるのも、自分の目を新しくするのに有効だ。いつもの仕事も、初心に戻れば、生き生きとした実感が戻るかもしれない。
引用の最後のところ、作られてしまったものは芸術では重要な意義を持たない、と言うが、実際には人々がいわゆる芸術作品に接するとき、それらはすでに作られてしまった、創作過程としては完了したものである。そこに作品が作られる過程そのものは現前しない。しかし作品に触れることで、鑑賞者の内面で、作家の創作過程を追体験することはあるだろうし、また、作品を動機として考え、自分の今後の体験に応用することになるだろう。
作品需要においては誤解もまた有用に作用する場合がある。創作過程を誤解して推定してくれるからより良い形で鑑賞者の内面を刺激することがある。
また作者の側としても、意識的ではない偶然の産物が作品に意味を与えることもある。
日常生活では、机の机らしさがいちいち突出していてはむしろ暮らしにくいので、実感の喪失にならない程度に引っ込んでいてくれればよい。