「ポリヴェーガル理論」は、精神生理学・行動神経学者のステファン・W・ポージェス博士によって、1994年にはじめて提唱された。ポージェス博士は、イリノイ大学精神医学科名誉教授を経て、いくつかの研究所で代表を歴任し、2020年秋には、研究者と臨床家が情報を共有し、社会に貢献する場として「ポリヴェーガル・インスティテュート」を創設した。
ポリヴェーガル理論は、非常に学際的かつ複雑なもので、まだ解明されていない脳や神経系の働きや、その関係性も含めて捉えようとする壮大な理論だといえる。そのため、要点を絞ると言っても難しいが、特に自律神経系の働きについての洞察が、トラウマ治療の専門家によって臨床応用されたため、欧米で広く知られることになった。
「ポリ・ヴェーガル」とは、「複数の・迷走神経」を意味し、「多重迷走神経理論」という訳語が使われることもある。ポージェス博士は、自律神経系の発達を進化を軸に考察し、私たちヒトの自律神経系には3つの神経枝があると論じた。その3つとは太古の魚類に備わっていたとされる、進化的に古い迷走神経である「背側迷走神経複合体」、さらに硬骨魚の時代に現れたとされる「交感神経系」、そして、哺乳類のみに見られる新しい迷走神経とされる「腹側迷走神経複合体」である。「腹側迷走神経複合体」は、豊かな表情を作ったり、声のトーンを調整して自分の気持ちを伝えたり、相手からの友好の合図を受け取ったりなどの、人と人とがおだやかにつながり、交流するために欠かせない働きを担っている。「交感神経系」は、主に活動するときに使われ、危機に瀕すると「戦うか・逃げるか」を選択する。「背側迷走神経複合体」は消化吸収や睡眠などを司っているが、生命の危機に瀕すると、「凍りつき反応」を引き起こす。「凍りつき」の状態では、思うように身体が動かなくなり、呼吸や心拍が遅くなり、いわゆる温存モードに入る。この、戦うことも逃げることもできず、凍りついている状態にあるのがトラウマを抱える人とされる。
「腹側迷走神経複合体」が健全に機能している人は他者から非友好的な態度を取られても、社会的交流を心がけることができ、容易に交感神経系に乗っ取られて闘争・逃走反応に走ることはめったにない。「腹側迷走神経複合体」がバランスよく働いているときは、「背側迷走神経複合体」もよく機能しているので、胃腸をはじめ、全身状態が良好である。また、脳にも十分な血流がいきわたり、明快な思考、的確な状況判断などが行える。こうした自律神経系の働きが乱れると、臓器が調整不全に陥り、思考も乱され感情も荒廃する。
ポリヴェーガル理論は、人間の全体性を理解するのに役立つ。ポリヴェーガル理論は、「心」と「身体」が切り離されている存在ではなく、自律神経系を通して全体として機能していることを明快に説明した。私たちは、脳こそが生命および精神的な活動の司令塔だと思っている節があるが、むしろ身体からの信号が私たちの思考や自己像、世界観に多大な影響を持つことがわかってきた。
有機的なつながりを求めて
ポリヴェーガル理論では、個人は他者とつながることで自律神経系が健やかに機能すると論じている。他者とのつながりを促進する「人とつながる迷走神経」が健全に機能しているとき、人々は「安全である」という友好の合図を送り合い、絆を感じることで神経系のレベルで癒されるのである。それによりおのずと心身の健康も増進される。
私たちの身体は、パーツの寄せ集めではなく、社会も個人の寄せ集めではない。それぞれのパーツが、健やかにつながり合っているときに、私たちは幸福を感じ、社会もまた安全で心地よい場になっていく。私たちは有機的なつながりを持った存在であることを、ポリヴェーガル理論は思い出させてくれるのである。