日本政府や官僚が隠ぺいしてきた事実が、アメリカの公文書公開によって明らかにされることが何度かあった。
アメリカ人の、歴史の事実を、公文書によって明確に記録し、それを指定の期日が来たら公開するという態度は何に由来するのだろう。
一方で、日本政府や官僚の、また長野や東京の五輪関係者の、将来において事実が明らかになるような書類は破棄する、悪事は水に流す、時間がたてばすべては清算される、禊が済んで浄化されるとでもいったような態度は、いったいどうしたものだろう。
全ては水に流されるのに、世襲制度や縁戚関係だけは強固に維持されている。
私は事実は事実として明確に保存され、子孫による後日の教訓のために用いられることが良いと考える。
日本において、こんな基本的な倫理が欠如しているのはなぜなのだろう。
長く続いている習慣的態度と考えるべきか、もっと根深いものと考えるべきか。
古代日本語の使い方を見ると、悪、罪、禊などの関係用語に特徴があり、キリスト教徒はかなり異なっている。
神でさえ一時の迷いにとらわれることがあり、それは禊によって清められるのだから、人間のそのようなものだと考えているのかどうか。
政治家が、選挙で禊は済んだと言ったりする。公文書も隠ぺい処分して、なかったこととして水に流す。現実にあったこともなかったこととして歴史を改ざんしてしまう。それが神のおきてに背くこととは考えない。歴史の法廷の前で厳粛な気持ちがない。
もうだいぶ苦しんだのだから、いいじゃないか、復帰させてあげようよ、という気分。なかったことにしておこうよ、仲間なんだし、という気分。
歴史は一つしかない、それを子孫は教訓として、正しい判断を下すようにしてほしい、そのためなら、現在の自分たちが将来批判されても仕方がない、だからこそ、将来、歴史の法廷において断罪されないように行動する必要があると、少なくともパブリックには考える。最後の審判の考え方があるような気がする。