「同時代のこと ヴェトナム戦争を忘れるな」吉野源三郎、岩波新書861、1974年。
昔古本屋で100円で買った本。初版本である。本の後ろに100と鉛筆で記入がある。古書店の人が書いたものだ。
吉野源三郎は「君たちはどう生きるか」の著者で、雑誌「世界」の初代編集長だった人。
長い序文では、同時代の事柄を記録することの意味について語っている。熱い。
まことに志もよく、日本語としても文句ない。読んでいて頭が整理される。説得力がある。
一部だけ、すこし情熱が入りすぎて、議論が破綻している部分もあると思う。
今現在生起している現象について先入観や理論的枠組みにとらわれることなく、余計な解釈を加えることなく、記載することが大切である。
アメリカは共産主義に対抗するため、傀儡政権を作り、それを援助して共産主義または旧共産主義国またはテロ国家認定国と戦う。この構図はずっと変化なし。ヴェトナムからウクライナまで。
北ヴェトナムの指導者であるホー・チミンについて、同胞に対する愛、不正に対する憤り、レーニンの理解、などを書いていて、それは良いのだが、大衆もそれに応じて覚醒したというような話になっているのだが、そこについては問題があると思う。リーダー目線である。
大衆がこぞってそのような思考をし、そのような情熱を分け持ったであろうか。実際には強制の部分があったはずであろうと思う。それが人間の集団である。その種の強制を良いと考える人もいるし、悪いと考える人もいるかもしれない。
悪いと考える人はもちろん、強制されることが嫌いなのである。それが間違っている可能性もあるのではないか。そのような情熱や思考を道具にして他人を支配することが目的である人もいるのではないか。自分はそのような情熱の波に加わりたくないという人もいるはずで、その人たちを尊重することができていたか。
一方、良いと考える人は、目前の敵に対抗するためには、そのようなやや強制的な説得も必要であり、いやいやながら同調した人も、最終的にはそれで良かったのだと納得してくれるであろうというような論理になるのだろう。負けてしまって命がないのだから話にもならない。未熟な人を引き上げてやったくらいのつもりなのだろう。そのような場合もあるだろうとは思う。
命がけでぎりぎりの場合には強制的な服従も必要なのかもしれないが、その場合、一個人の立場に立ってみると、Aという支配者とBという支配者とどちらがいいのか、いずれにしても苦しいこともあるだろう、どちらかが絶対にいいということもないはずだろう、歴史は支配者になる人の心は描くが、いずれにしても支配され服従を強制される立場の人の心は描いてくれない。つまらないから誰も読みたくないのだろう。
しかし自由と民主主義の国が実際には不自由と圧政の国だったわけだし、労働者階級の国がエリートテクノクラートの国が実際には民衆に圧制を強いる国だったわけで、どちらにしても大衆は報われない。
北ベトナムの大衆は、アメリカ軍にどんなに殺戮されても、諦めず恐れず次々に立ち向かっていった。といったような意味合いの賞讃が書かれているが、ここには違和感がある。アメリカ軍の攻撃は恐ろしかったし、あきらめもあったに違いないのである。しかしそれ以上に北ベトナム上層部を恐怖していたのではないか。勇ましかったのは思うに上層部だけではないのかと思う。大衆は自分と家族の命だけが大事なのだろうと思う。アメリカ軍からの恐怖よりも北ベトナム上層部からの恐怖のほうが大きかったので、大衆はやむをえずアメリカ軍と戦って命を捨てたのだろう。
北ベトナム上層部としてもどうしようもなかった面もあったのだろうけれども。どうしようもないのが戦争であるとしても。賞讃すべきことではない。
大義に殉ずるなど物語の中だけで美しいのだ。