6類型の中で、忠誠、権威、神聖については、近いものだと思われる。

ジョナサン・ハイトによれば、道徳基盤はひとつではない。六つに類型化できる。「ケア」「公正」「忠誠」「権威」「神聖」「自由」の六つの類型である。米国の左派(リベラル)を信奉する人は、3つ(ケア、公正、自由)の道徳を重視するが、忠誠、権威、神聖には重きを置かない。その一方で、右派(保守)の立場の人は、6つの道徳すべてをバランスよく調和させようとする。

というような説明があるのだが、道徳基盤として孔子の例を挙げると仁(愛情)・義・礼・智・信などがまず挙げられ、そのほかに忠、孝、悌(これらは忠義とか孝行とかそんなところ)などがある。
ハイトの6類型の中ではケア、公正、忠誠、権威が採用されている。孔子では神聖は語らずとされているし、自由については取りあげられていない。

6類型の中で、忠誠、権威、神聖については、近いものだと思われる。権威に忠誠を尽くすのだし、権威はしばしば神聖である。世俗的権威と宗教的権威の分離が近代法制度であるが、権威の根源が民主主義的同意ではなく、カリスマを神格化して権威と神聖を統合して感じている、または感じさせている古いタイプの社会もある。忠誠、権威、神聖の3つについては分離しなくても、一つでもいいのではないか。要するに縦の関係を重視するものだ。

道徳感情として、愛情、自由、平等、縦社会従属、の4つにまとめられる。
従来、自由を大切と考えれば、自由主義であり、
平等を大切と考えれば、社会主義である。
その適切な妥協点を考えて社会民主主義などとも言った。
愛情が十分にあれば、新自由主義資本主義でも、社会主義でも、問題なく社会はうまくいく。愛情が足りないからどちらもうまくいかないのである。

リベラルか否かは縦社会従属性の要素があるかどうかになるとも考えられるが、リベラル集団の中でも、結構縦社会規範の強い集団が実際には多い。現実のリベラル集団が対社会従属性が弱いとはとても思えない。理想リベラル集団でのみ縦社会従属性を重視しない、となるだろう。理想とはこの世では存在しないという意味だ。

むしろ日本語の感覚としてはリベラルは自由と平等をともに求め妥協点を探す、反リベラルは、従来から、行き過ぎた自由は社会を壊すとか、行き過ぎた平等は現実的ではないとか主張しているような気がする。新自由主義は最大の自由を求め、平等は無視して、個人責任だ、結果の平等ではなくチャンスの平等だと言っている。
リベラルも反リベラルも愛情がないのは同じだし、縦社会従属性が強いのも同じである。