『ハーバート・ノーマン 人と業績』加藤周一編、2002年岩波書店。

『ハーバート・ノーマン 人と業績』加藤周一編、2002年岩波書店。
1930年代の日本の軍国主義の源は明治時代にある。官僚制の問題。明治の革命が不十分であり不徹底だったから、戦争になってしまい、敗戦に至ったとGHQは考えた。敗戦に際して、GHQは新たに充分で徹底的な革命を与え、そうすることによって、将来の軍国主義を防止することとした。
しかしながらすぐに冷戦状況となり、改革は妥協的なものとなってしまった。敗戦後は一瞬の純粋民主主義であった。

政治学者も歴史学者も、マルクス主義的方法以外に学問の方法は乏しい。それ以外はエピソードであろう。理論がない。

太平洋戦争または15年戦争で、日本はなぜ無謀な戦争に挑み自殺攻撃を繰り返して敗戦に至ったのか。
その原因は江戸時代またはそれ以前にあるのか。明治維新にあるのか、あるいはその後の大正、昭和前期にあるのか、そのような問題意識があった。
またGHQがどのように敗戦処理をして、新しい体制を実現すべきか、そのためにも、歴史的回顧が必要であった。
(1)江戸時代までに、イギリスほどに成熟したものではないにしても、資本の蓄積は徐々に進展していた。
武士は生産活動に従事せず、農民からの搾取によって生きている制度が完成されていた。領土をめぐる戦争はもうなかった。
過酷な税金に抗議して農民一揆が起こっていた。この点では農民の間に抵抗権とか人権意識のようなものが発生していた。
(2)明治維新は不十分な革命であり、それゆえに、戦争に向かう天皇制と官僚制を用意してしまった。この明治維新については、イギリスが新政府軍に加担し、フランスが旧幕府軍に加担し、必ずしも内発的な革命ではなかった。
革命の主体は農民と下級武士であった。農民は封建制度に反対したが、下級武士は保守反動的に昔に帰れと主張する側面もあった。
封建制から専制権力、絶対権力に突然に移行し、富国強兵に向かった。
政治家は外国資本への依存に慎重になり、国内の財閥を育て、農村社会に対する課税を強化した。
中央集権化と工業化は急速に進展した。
日本のように西洋に遅れて、しかも突然、封建制から脱却しようとした場合、もっと大きな騒乱を招いても当然であったが、絶対主義が功を奏して乗り切ることができた。
しかし一方では東北の貧困な農民が娘を身売りしていた。
このような明治維新の成り行きは果たして、唯物史観のレールの上で、多少の修正をしながら解釈できるものであろうか。それともこの日本の例は、唯物史観の理論的破綻を意味しているのだろうか。だとしたら、どのような歴史の発展法則があるのだろうか。

一つの見方は、徳川封建制を、上から武士が、下から農民が、打倒したとみる。そして武士の思惑は、封建制からの解放ではなく、封建制を再建するための反革命であったと考える。
いずれにしても幕府は倒れて近代資本主義の出発となった。
日本資本主義発展のプロセスはイギリスやフランスと異なるが、資本主義の法則は長期的にみて成立すると考えられた。
唯物史観を採用するならば決定論であり、そうでないならば自由意志論であるとの考えは、現実的ではない。どちらの要素もあるに決まっているだろう。
どの面で切り取るか、どの近似を採用するかの問題と思われる。
明治維新を階級闘争や社会主義革命と解釈するのは一面的すぎると思う。
明治維新で封建主義・専制主義の完全な打倒が出来ず、長期間にわたる闘争の一部であると解釈する。
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別の観点から。
1.1920年代以前の日本で、なぜ急速な西欧化に成功したのか。
2.1930年代の、対外進出、暗殺、古いイデオロギーの再興に至る流れの理由は何か。
歴史の発展の進化段階というマルクス主義によるドグマによる解釈が試みられた。
日本では講座派と労農派があった。講座派は明治維新はヨーロッパの市民革命ではないとした。労農派は一種のブルジョワ革命であったとした。
天皇崇拝、封建制、絶対主義、資本主義、どの体制も農民と労働者の搾取の上に成り立っていた。
天皇の権威と官僚の権力は温存され、民衆からの搾取は続き、その中で対外膨張主義が戦争という形で現れた。資本主義と天皇制の矛盾を解決するにはその道しかなかった。

また別の観点
やや修正を加えた考え方として、農民社会は一揆などにより主張し、農業生産力は上昇したのに、大名は年貢を増やすことができなかった。結果として武士階級は貧困化し、反動的動きが起こった。
維新後の議会制は機能しなかった。これに対しては、1930年代の軍国主義は大衆デモクラシーの現象であったとの解釈がある。満州危機に際して大衆は中国に対しての戦争に熱狂した。大衆は日本を神国と信じ、中国を軽く見た。
状況の変化を認めるだけの情報は与えられず自力では収集できなかった。それが大衆の限界だった。現実を知っていた人は多くを語らなかった。