世界観の問題 不幸を少なくするために

世界観の問題はやはり考えたい。

不幸の原因は社会制度にあるかもしれない。それを変革するのは具体的な政治権力かもしれない。たとえば経済の仕組みを変更することで不幸を減らすことができるのかもしれない。今のところ、実験としては成功していない。しかし、その方向での可能性を探るのは大切だろう。

しかしまた一方で、我々の思考や感情を底辺で規定している世界観を変更することで、不幸を少なくできるのではないか。その可能性はないか。
もうヨブ記の主人公はそんなに嘆かなくてもよくなるかもしれない。

地動説と天動説を例に考える。
天動説の伝統を棄てない限り、どんな新しい測定結果が示されても、次々に修正が加えられ、パラダイムは維持される。話し合いが話し合いにならない。感情的なぶつかり合いになるだけ。
その中にいる者は外に出られない。それは原理的な限界である。
その意味で自分をいま包み込んでいる世界観を、もっと離れた位置から、もっと客観的に、見ることが必要であるが、それもまた今の自分からしか見ることができないのだから、原理的に難しい。結局は主観的に見ることしかできない。
ただわずかに数学の原理は、自分が包み込まれているパラダイムの位置を示してくれるかもしれない。

世界観を変更することで何か変わるのではないか。どうだろうか。
世界観変更による利得を考えるのは、原理としては正しい可能性があるだろう。
その次の段階として、具体的な世界観を提案することもよいだろう。
私はその前段階を考えている。

貧富の格差が問題になっているが、認識論的なレベルの格差も問題かもしれない。問題は、このメンバーでこの世界を共有してゆくしかないということだ。そうでなければ、別世界に住む人たちのことは気にしなくていい。
しかしこの世界のことを考えれば、同時代に生き、未来に生きる人を、別世界の他人と考えるわけにはいかないだろう。
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日本人は忘れやすいからこれでいいよねなどと言われてしまう。水に流せるとも言われてしまう。
そうした性質は、遺伝子に刻まれ、その結果として脳に器質的に刻まれているのか、あるいは、日本語というシステムに内包されているのか。
日本人の遺伝子を持った人がアメリカで育ち、フランスで育ち、ブラジルで育ち、どのような思考を持っているか、比較すればよいのだろう。
日本語に問題がある可能性はあると思う。

最近は気候変動の問題もある。降れば大雨、台風は巨大、地震は激烈。そうなると無常観は高まり、忘れやすくなるしかない。
石に刻んで忘れない態度は難しい。すべては水に流される。あるいは風に飛ばされ、地震で崩れる。火事で燃える。常なるものはない。命ははかない。
また、気候が人間の性格にも影響するだろう。南の国の人はたいてい楽天的と形容される。また感情が豊かとも言われる。たとえば東京でも、そのような側に変化は生じているかもしれない。
このあたりも世界観に影響するだろう。

「悪霊がついている」「先祖を救うため」などといわれれば、逃げられなくなって言いなりになるなど、どのようなメカニズムなのか。
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たとえば、ジャック・アタリ『命の経済』のなかで利他主義を語る。
われわれはいつだって、利他主義であることで自分が利益を得るのです。個々人は、人嫌いだから無人島でひとりきりで生活しているということでもないかぎり、利他主義によって利益を得ます。
自分の知らない人の幸福も自分の利益になるのです。われわれは人類全体が幸福になることで利益を得ます。今はまだここに存在していない人びとの幸福からも利益を得るのです。
他者というのは、隣人のことでもあり、遠く離れている人のことでもあります。われわれを取り巻くすべての人のことです。そして自然が幸福になることも、われわれの利益になります。
将来世代の利益になることが、自分たちの利益にもなる。
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