日本とドイツの類似性

こういう意見があって、現実は実際にはそんなに単純ではないと思うけれども、割り切って考えれば、一面として、そのような分析ができるのかもしれない。日本とドイツの類似性が説明できればいろいろと便利なのだけれど、これでいいのだろうか。
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エマニュエル・トッドは歴史人口学者で、自分自身がイギリスに住むフランス人である経験から、家族の形態を決定づける因子として相続と同居の両方を見出した。

日本では相続は長子にだけ行われる。それというのも自作農が多かったからだ。自作農で田んぼを分割して相続すると、タワケと呼ばれてしまう。田を分けると生産性が著しく落ちる。かつ、成人後も長子は親と同居する。だから親は子の教育に熱心だ。先祖代々の土地を次の世代に継承する。そのために秩序を重んじる。これを直系家族と呼んでいる。日本の他にドイツや韓国がそうである。

アングロサクソンの相続は遺言によって行われる。アングロサクソンには小作農が多かった。だから、そもそも相続するものが多くなかった。そして成人後は親の世代と同居しない。よそで世帯を構える。子供の教育には不熱心だ。子どもたちは成人後は自活することを強く意識付けられる。だから、自由を尊重し、冒険心に富む。これは絶対核家族と呼ばれる。

日本やドイツ、韓国で自動車産業を中心に重工業が成功しているのは、この直系家族の性格のせいだ。産業の垂直統合性が高くなると、秩序維持が重要なのだ。ケイレツという会社間の秩序を形成して、生産ラインをみんなで守るのだ。

ITの世界でもコンピューターが大型だった時代にはこの直系家族の性格が有効に機能していた。日立、NEC、富士通といった日本のメーカーはこぞってメインフレーム機の開発に成功した。メインフレームの開発と製造にはケイレツ的な秩序が必要だったのだ。

ところが、コンピューターが小型化すると、産業の垂直統合性がなくなる。ケイレツ的な秩序形成と維持力はあまり役に立たない。

さらに、IT産業中心はハードウェアからソフトウェアに移る。アメリカのエンジニア達は持ち前の冒険心を発揮する場所としてソフトウェア産業を見出す。ITベンチャーがブームになり、ドットコムバブルになる。バブル崩壊後はファイナンスについては多少慎重になったが、アメリカ人にとってソフトウェア産業は冒険心を発揮する場であり続けた。

一方で日本ではソフトウェア産業は、産業全体の秩序の中に組み込まれた。日本の産業の中に厳然として存在するケイレツに組み込まれたのだ。NTTグループにはNTTデータを筆頭に、NTTコムウェア、NTTソフトがあり、日立グループなら日立製作所を筆頭に、日立システムズ、日立ソリューションズ、日立ソフトとグループ内に秩序がある。

上の会社が下の会社をサブコン(協力会社としてプロジェクトに組み込むこと)として調達することはよくあることだが、下の会社が上の会社をサブコンにすることはまずありえない。給料にもはっきりとした差があるし、顧客に提示する人月単価も違う。

業界内には「社格」という概念があり、コンペで他社に出会うと、グループ外の会社でも相手の社格がなんとなく分かるのだ。社格が上の会社にはコンペで勝てないと思うし、社格が下の会社にはコンペに勝てそうだと感じる。

こんな風土からITベンチャーが出てくることを期待するのは難しい。

日本にはなぜアメリカみたいにITベンチャーが生まれないのかというと、それは私達の先祖が自作農中心だったからだ。

日本で失敗が許されない文化があるのも、この直系家族の性格のせいだ。先祖代々継承してきた土地を失敗によって奪われるわけに行かないからだ。

日本でエンジニアがあまり評価されないと感じるのも、この直系家族の性格のせいだ。エンジニアの給料は入社した会社の「社格」によって決まるからだ。高い社格の会社は高い人月単価を顧客に出せる。どんなにプロジェクトがデスマになっても決してケツを割らないという信頼もあるからだ。

社格の高い会社に入社するためには、いい大学を出ておく必要がある。そして、在学期間の早いうちから就職活動にコミットしておく必要がある。つまり、日本ってそういう感じのことなのだ。

今までは、そういう感じだった。でも未来はどうなんだろう。正直私達の多くは土地を相続することを期待していない。田舎の土地をもらったところで、もうそこには住んでいない。先祖代々の田んぼを子孫に継承する必要などない。親とも同居していない。帰省する田舎がある人はどんどん減っていくだろう。親の世代も自分の田舎を出て都会に来てしまっているからだ。

むしろ下部構造的には日本はアングロサクソン化しているのだ。

日本が直系家族的性格を維持し続けかは疑問が残る。日本で憲法を改正しようとしている人たちが心配しているのはここだろう。だから、直系家族的性格を制度化したいのだ。

憲法を変えたところで日本のアングロサクソン化は止まらないだろう。産業資本主義っていうものは、伝統的共同体に所属していた農民を、職業選択の自由という甘い蜜で誘い出して、新しい労働者に仕立て上げるものだ。そうすることで新しい労働者と新しい消費者を同時に獲得するメカニズムなのだ。経済成長はそのメカニズムに負うところが多い。

職業選択の自由とは、生産手段の相続を放棄することと裏表一体なのだ。社会全体を小作農に変えてしまおうとする止められない運動なのだ。

今どきの日本の親は子供に自分たちの力で食っていくんだぞ、と子供に教えているはずである。教育費は出すけれど、その後のことは自分たちの老後の蓄えで精一杯だからである。

もう生産手段を相続することはできない、すなわち農地の相続には意味がない。だから、なんとかそれを教育費を通じて稼げる能力を相続しようとしているのだ。しかし、高い教育を受けたからと言って稼げるとは限らない、そんな雰囲気になりつつある。特に就職氷河期はひどかった。

タイミングが悪ければ高学歴でも、一昔前だったら楽に入れたはずの社格の会社にも入れなかったりするからだ。今までの努力は何だったのだろう。10年前に同じ大学の先輩達はもっと社格の高い会社に労せずして入っていた。

入社したところで成果主義の世界である。昇進できないのである。クビにだってなる。そもそも正規雇用だって高嶺の花である。

そういう経験が積み重なれば、もう生産手段を相続できない、というように理解されていくだろう。そうなると、もう全て自力のアングロサクソン的世界観である。