下書き うつ病・勉強会#7 座標変換

下書き うつ病・勉強会#7 座標変換

前回までのお話で、現在の症状の記述は、まだ自然科学に到達していないと感じたと思います。光のことを研究する場合の周波数にあたるものがまだないのですから。

さて、どんなうつが病気でどんなうつは病気ではないのか。どの程度から、抗うつ薬を使うのかなどの疑問があると思います。

まず反応性うつとうつ病の違いを考えます。

反応性うつはストレスに対する反応としてうつが生じている場合。うつ病は原因としてストレスに反応しての場合もありそうでない場合も含み、うつ病としてのうつの場合。

うつ、うつ状態、抑うつ状態、うつ病の言葉の違いについては、一般的な理解としては、うつ状態は、うつ病には当てはまらないが、憂うつな気分の状態をいう。うつ、抑うつ状態もうつ状態と同じ意味である。

つまり、反応性うつとうつ病は交わらないと理解する。

一応そうなのですが、詳しく言うと、人間がうつ病になったときは、そのこと自体が非常に大きなストレスですから、反応性うつが発生するでしょう。ですから、うつ病の症状の中には、ここでいう反応性のうつの成分とうつ病のうつの成分が混じっていることになります。しかしこのあたりのことはまた後の話として、理論的には反応性の成分と精神病性の成分とが分離できるのではないかと仮定して進めます。

うつ、うつ状態、抑うつ状態という言葉については、反応性うつだけを意味する場合と、反応性うつとうつ病の両者を含んで意味する場合とがあります。

躁うつ病の場合、躁状態とうつ状態を繰り返すと表現するか、躁病とうつ病を繰り返すと表現するか、揺れがある。うつ病を単極性うつ病の場合だけに用いる場合もあるし、双極性障害のうつ部分をうつ病と書いていることもある。

躁うつ病と双極性障害は同じ意味だけれども、背景が少し違うという程度である。

そもそもうつ病という積極的な診断概念は有効ではないとの見解もある。躁うつ病の場合のうつ病はそう状態の時期に神経細胞がダメージを受けた後の修復過程であるという見解である。単極性うつ病は、単極性と見えるだけで、観察を細かくしていけば、脳神経細胞がダメージを受ける時期が存在した場合も多いと考える。

統合失調症の場合に見られるうつ状態を、統合失調感情障害と見るか、反応性うつと見るか、議論はある。

つまり、うつ状態は反応性うつとうつ病の両方を含む場合と、反応性うつだけを意味する場合がある。反応性うつなのかうつ病なのかは一瞬で判別できるわけではないので、両方を含んでうつ状態と呼んでおく場合も少なくないと思う。うつ病ではないことを明示するならば反応性うつと言えばいいのだが、最初の時期に反応性うつと判断したものの、時間が経過してうつ病と診断変更する場合もある。

反応性のうつは、うつが深いこともあるし長く続くこともあるが精神病ではない。うつ病は長さと深さに関わらずうつ病である。

うつ病ではない範囲の憂うつな気分についていえば、強いストレスを感じて一時的に憂うつになる場合があるし、それほど強いストレスとは一般には考えられないのに、個人の脳の事情から強いストレスと感じて、憂うつになる場合があります。それから、ストレスによらず、うつ病の診断に当てはまるうつ病があります。

では一時的とはどのくらいか、強いストレスとはどのようなものか、個人の側の脆弱性はどのあたりから異常なのかが問題になります。境界線の問題ですね。これには考え方がいくつもあります。

何が正常で何が異常ですかという問題です。医学的には前に説明したように、機能異常を裏付ける構造異常が確定して病気と呼ばれるわけです。しかし精神の問題の場合、そこまで科学として発達していないので、妥協的に心理的な考察から考えられないかという問題です。

左側には反応性のうつがあり、右側にはうつ病があるとして、中間部分には両者の要素が混合した領域があるのではないかと考えるのが普通かなと思います。

では、うつ病のうつであると判断する根拠は何かと言えば、いろいろな人がいろいろなことを言っているのですが、昔尊重され、今ではあまり支持されず、しかし他に有力な方法もないのでやはりこれがいいと思われているのが、vitale Trarigkeit です。翻訳すると生機的悲哀、悲哀の生機化と言います。Schneider先生です。悲哀の感情ですが単に心理的レベルにとどまらず、身体層に根を持った悲哀です。vitale はバイタリティつまり活力とか使いますし、医療ではバイタルというと、脈拍数とか血圧、呼吸数、体温といったような一連の計測値です。生命維持に不可欠な数字です。vitale は根源的な生命エネルギーという感じです。Traurigkeitは悲哀です。このvitale Trarigkeit は日常生活からの延長では理解しにくい。それぞれの人生の中の体験から、万人に了解可能なものではない。これこれこういう時に感じるような悲哀と表現しても、伝わらない。例えば、ただ悲しいのではなく、胸がつぶれるような、心臓が締めつけられるような、おなかの中に大きな石が入っているような、そんな感じなどと表現します。身体を巻き込んだ気分変化が発生していて、自律神経症状が伴い、めまい、肩こり、首こり、頭痛、耳鳴り、聴覚過敏、難聴、口喝、動悸、胸の圧迫感、喉がふさがる感じ、震え、異常感覚、触覚喪失、冷感、ほてり、腰痛、腹痛、便秘、下痢、月経不順、倦怠感、易疲労性、アルコールに弱くなる、光が苦手、などを伴うことがあります。

この流れで、重度のうつ病の定義をより狭くして、メランコリアまたはバイタル・ディプレッションと呼ぶことを提唱した人もいます。

また、別の人は、了解可能性と理解可能性と分類しました。了解可能性とは、患者さんの話を聞いて、治療者の側で自分の体験の延長として感情面も併せて共感的に了解できる場合です。しかし、ある患者さんの場合には、そのような了解はできないけれども、客観的に理解はできる、しかし共感はできないという場合もあります。このようにして、了解できるものが、一般の経験の延長としての、反応性のうつ状態です。了解できないが、理解できるものが、精神病性のうつです。

これは一見、素晴らしいようにも思えますが、了解可能性がどのようにして治療者集団に共有されるのかなどを考えると、少し面倒な話になります。実際に治療するにあたってはこのようなことを細かく気にする必要はないわけです。どのような理解を根底に持っていても、最終的な治療方法とか態度が共有されていればそれは社会の中で肯定される治療となるでしょう。ですから、余計な心配でもあります。実際、このようなことは昔から哲学者とか文系の人の仕事で、実際に解剖もして患者さんの苦悩に付き合っている医師としては趣味の領域の話です。精神医学の話を文系の学者さんが書いていることもあり、文系的な仕事になるのは昔からの伝統とは言うものの、まあ、どっちでもいいことを言っているような気もします。波長640ナノメートルの光の色は赤か橙かとかいうのに似ているのですが、640nmでいいでしょう。赤というか橙というかは判定者の脳の性質です。対象の性質ではありません。診断もそれと同じようなものです。しかし波長の測定方法が発見されるまでは赤とか橙とか表現するしか仕方がありません。

繰り返しになりますが、確認すると、大まかに言って、ストレス反応性のうつと精神病性のうつ病のふたつがあります。昔は神経症性のうつと精神病性のうつと言っていたものです。ストレス反応性のうつは、正常な人が人生の中で大きなストレスに出会って、そこで経験するうつです。「このくらいのストレスなら、大体どのくらいの深さのうつで、回復まで期間はどのくらいだろう」という予想とそれほど異なることはないでしょう。しかし精神病性のうつは、「その程度のストレスで、これほどの深いまたは長いうつというのも考えにくい、ほかに原因があるのではないか」と考えられるほどの状態ということです。どの程度のストレスならばどの程度の深さのうつがどの程度の期間続くのか、その予想はなかなか難しい。治療者の考え方や感じ方によっては診断に揺れが生じるのではないか、そう考えると、どの薬剤はうつに使ったとき効果はどうかなどという検証も難しいことになります。そこで、診断の妥当性はいったん置いておいても、どんな人でも一致する方法を採用して、その状態にコード番号をつけて、そのうえで治療法の検定などをしていこうとしたわけです。

とはいっても分かりにくいので、このあたりの事情を、次のようにたとえたらどうでしょう。数学で https://www.youtube.com/watch?v=99GSiwV_tfg このような話題。座標変換ですね。

体験の表現としてベクトルを描く。それは長さと角度で表現される。長ければ強烈かといえばそうでもない。特有の長さと角度の時に強いうつ状態になる。しかしうつ病にはならない。時間がたてば元に戻る。反応性のうつ状態です。

うつ病になるのは座標変換が起こっている場合です。

戦場で悲惨な経験をしたなどのPTSDは座標変換に相当し、うつ病になる。また幼児期の性的虐待でも座標変換が起きて、うつ病になるケースもあります。

症状を数え上げてその程度を評価するのはベクトルの長さと角度を測っているだけで、質的な言及になっていない。体験の質を知るためにはその人の座標の上でのベクトルの長さと角度を知らなければならない。世界観とか価値観とかもこの座標の中に含まれる。

同じような話は相対性理論でも出てきます。質量があれば重力が発生し空間がゆがむ。空間の歪みがあると、自分では直進していると思っていても、他の観測者から見れば、曲がって見える。この空間のゆがみにあたるものがうつ病診断の手がかりとなります。

空間のゆがみでもいいですし、座標のゆがみでもいいですが、それは歪んでいない座標と連続したものですし、どちらが絶対に正しいというものでもない。世界の法則が変化すれば、どんな座標が適応的であるかは変化するでしょう。地球のS極とN極が交代したりするのですから何が起こるかわかりません。いろいろな環境に適応するために、進化の最前線である脳は、いろいろなタイプの座標の脳を用意しているのでしょう。統計的分布に従い様々な変異が用意されているのでしょう。ただし意図的に多様性を目指したのではない。進化論的に言えば、多様性を維持するようなDNAが生き残って個体数を増やしてきたということになります。

座標の上にベクトルが一本引かれます。それが経験です。こちらの座標とあちらの座標ではその一本のベクトルの意味が違うでしょう。だから、こちらから見れば大したストレスでもないのにあちらでは苦しんでいるということが起こるでしょう。特有の長さと角度が、その人にとっては重大な意味を持つことになります。

ですから、治療者は、その人はどんな座標を生きているのか知る必要があります。そこに、エピソードとしての今回のベクトルも書き加えます。

治療者側が正しい座標を知っているということでもありません。相対的ですから。ただ違いは分かる。治療者自身の座標と患者Aの座標と患者Bの座標と、違いが判るというだけで、価値判断をしているわけではない。

お金が大事という人もいるし、異性によく思われたい人もいる、世間体が大事な人もいるし、健康が第一の人もいる。それぞれの人に見えている世界は違うでしょう。最大公約数はあるでしょうから、それが多数者の意見になったりするのでしょう。商売をするには都合がいい。選挙でも都合がいい。でも、正しいとか間違っているとか偏りがあるとか訂正しなければならないとかではないのです。現実世界のそれぞれの場面で適応的かどうかの違いがあるだけです。適応したければ変化すればいいし、変化したくなければ適応しなくても嘆かないことだ。

患者さんの話の中でヒントを見つけながら座標変換後の座標の様子を探る。まあ、感覚としてはそんな感じです。

軽症内因性うつ病という発想はこのあたりの事情が背景にあるでしょう。うつ病の、反応性と精神病性は、軽症と重症との区分に対応していません。普通は精神病性なら重症ですが、軽症でも精神病性のものがあるのです。逆に反応性でも重症もありますが、それほど長期化しないで治るでしょう。このような言い方をする場合に、長期化するかどうかに言及しているのですが、それは経過に言及していることになります。経過を参照すれば診断は正確になりますが、医療の現場では、長い経過を見なければ治療選択ができないというのでは役に立ちません。現在症状を分析すれば、診断名が分かり、予後も予想できるようでありたいのです。

従来の指標で、精神病性かどうかを鑑別するために用いられたのは現実検討能力(Reality Testing)です。自分が考え感じていたことについて把握し、さらに現実と自分の内面の思考感情と現実を比較し、必要ならば修正する能力です。この、比較し、訂正する能力が精神病では失われます。たとえば、幻聴が聞こえる場合、それが幻聴だと認識することができない。被害妄想の場合、妄想だと認識できない。心気妄想や誇大妄想の場合、妄想だと認識できない。このことを強調した時代もありましたが、現実検討能力を失うようなケースに外来診療で次々に出会うわけはありません。軽症化の趨勢にあり、現実検討能力という物差しでは役に立たなくなっています。

そこで軽症内因性うつ病の言葉も出てくるのです。軽症だけれども、内因性である。内因性であるというのは、反応性ではない、脳内の特有の病的変化が起こっているというものです。つまり、脳内の座標変換が生じているということなのですが、そこを手軽に診断できるものかということです。

たとえば、診断のアルゴリズムを言葉やフローチャートで示すことができれば、AIに診断させることもできます。心臓病や糖尿病ならば所見を入力すれば答えが出るわけです。しかし精神病の場合、その診断アルゴリズムにたどり着いていないと思います。それでも診断できるのはなぜかと言えば、治療者の人間存在そのものがリトマス試験紙のように診断装置となるのです。

なんだかとんでもないことを言っているようですが、プレコックス・ゲフュールという言葉があって、統合失調症に特有なある種の感じです。精神科病院に10年くらい勤務していると自然にわかるものと言われます。それは治療者の側の脳が、言葉にならない部分も学習しているということなのでしょう。人間の脳が深層学習しているのです。ですから、言葉にしてアルゴリズムをつくることもできないし、フローチャートを書くこともできないのだと思います。それは現状では数字で測定できない何からしいのですが、まだわかっていません。将来、測定方法が開発されて、数字で表現することができるようになれば、妄想の数値化とかうつの数値化ができて、自然科学の手法で分析できるようになるでしょう。それまでは謎です。

人間がアルゴリズムを書けないとしても、ディブラーニングなどでAIならできるのかもしれません。余談ですが、ディブラーニングについて少しのぞいてみました。素晴らしいですね。人の顔を認識する方法についてでしたが、ディープラーニングを作った人は本当に頭がいい。一人ではなく集団なのでしょうけれども。イメージとしては、与えられたデータから特徴を抽出するフィルターを何回も通して有用な情報を強く残し、無用な情報は切り捨てて、与えられたデータの情報の中からで、目的に沿って大事な情報を作り上げる。目的にぴったり合うような複雑な関数を無理やり力業で合成する、そしてさらにデータにぴったり合うように調整もする。そうすれば使い物になるでしょうというわけだ。ものすごい計算量が前提。でも、手法としてはとても頭がいい。言われてみれば納得するけれども、よく思いついたものだ。

診断のことを話すのは、例えば、こんなことに似ている感じがする。猫を一度も見たことがない人に、「動物らしいんだけど、今度、何か動物が出てきて、それが猫なのかどうかを言わなくてはならない。どうすれば猫だとわかるの?」と質問されたとする。目の前の動物が猫であるかどうかを見分ける方法である。案外難しいでしょう。専門的には何かうまい方法があるのかもしれませんが、普通の人が普通の知識をもとにして、言葉で伝えるのはやはり難しい。でも、子供も自然に猫はこんなふう、犬はこんなふうというように分かります。目の前に出てきた動物が、初めて見る種類の犬だったとしても、これは小型の犬だと認識するでしょう。間違って、大きさを基準として、小さな犬を猫と言う子供がいたとして、それは猫の大きさだけど犬だよと教える、でも、子供は納得しないとして、どうするか。鳴き声なら区別できるでしょうか。

こんなふうに改めて言えば私たちが猫は猫だし犬は犬だと思っている概念の内容も言葉では説明しにくいものです。しかしディープラーニングは、実物でなくても、動物の写真の情報だけで、それが犬なのか猫なのか、分かるらしい。顔認証の仕組みなら、ある人の写真の情報だけで、社員証の写真の中から、どの人か選べる。それは子供でもすることだけれども、子供がどうやって犬と猫を区別し始めるのかもなかなか難しい。しかし自然に学習して、それは間違いのない概念内容ですね。犬と猫を間違える人も珍しい。

犬と猫ならそれぞれ画像を10枚ずつくらい用意すれば何とかなりそうですね、材料だけ用意して、あとは人間の脳が学習すればいい。学習した後でもやはり言葉で説明はできないでしょうけれども。精神病の場合は、画像でもダメ、動画でもダメ、かもしれない。一体人間はどのように学習しているんだろう。

この謎を解決するためにまず第一歩としてできることが、暫定的でもいいので、詳細な症状定義と診断の細密化だと思います。性質がよくわかった段階で、同じものとしてまとめたらよいのです。

昔は破瓜病、緊張病、妄想病といわれていたものがシゾフレニーとしてまとめられたような話です。しかし性質がよくわかるまでは、細かくしておいた方がいいでしょう。たとえば緊張病は一応シゾフレニーに統合されたようなところもあるのですが、改めて考えてみると別の可能性もありそうだとの議論があります。そんなこともあるので、将来の統合はどうなるかわからないということで、診断はできるだけ細かく分けておくのが当面は正しいと思います。

(つづく)