下書き うつ病・勉強会#14 妄想について少し道草

下書き うつ病・勉強会#14 妄想について少し道草

妄想の分類にはいろいろあるが、内容についての分類ではなく、形式についての分類を考えて、連続性はどうかを見てみる。

たとえば被害妄想で、私は隣の家の人に監視されている、さっきも隣の猫が私を見張っていた、猫はそれを隣の奥さんに報告しているという例があったとします。

まず、Aとして、隣の家には猫はいない場合があります。それ以前に、隣の家がない場合もあるでしょうが、いずれにしても、考えるまでもなく、妄想としてよいでしょう。細かい議論はあると思いますが。

次にBとして、隣に家があって実際に猫がいて、奥さんもいるとします。しかし、さっき猫が私を見たというのは、複数の家族によって否定されているとします。その場合も、妄想なんだろうなと思って大きな間違いではないでしょう。幻視プラス妄想だったかもしれませんし、もしかしたら幻視はなくて、猫を見たと妄想しているだけかもしれません。

AとBは、現実把握がずれています。認知症でも、意識障害でも、視力が障害されている場合でも、起こる症状でしょう。

次にCとして、隣の家もあり、猫もいて、しかもその猫はさっきすぐそこを歩いて、こちらを見ていたと、複数の家族の証言があったとします。たとえばビデオで撮影していたとすれば、ビデオにはその通りのことが記録されています。ただ、その現実に対しての意味付けが、周囲の人にとっては信じられない、なぜそのように思うのか共感できないという場合があります。これがドイツ精神医学でいう妄想ですね。見たということは現実で、その解釈が妄想です。

Cは統合失調症を強く疑わせる材料になります。

次に、Dとして、隣の家もあり、猫もいて、さっきその猫が通りかかってこちらを見ていたのも事実だとします。そこで、隣の猫が私を見張っている、猫はそれを奥さんに報告する。それは猫が脅迫されているからだ。猫が私を愛していることは私にはわかる。猫は奥さんに報告するが本当は私を愛しているから、最悪のことにはならない。

Dの場合は、どうでしょう。猫は私を見張っている、猫は奥さんに報告する、しかし猫は私を愛している、こうなると妄想は妄想でしょうが、状況の解釈や、最後に猫が私を愛しているとはなかなか信じられません。しかしこのまま本気で治療する必要がないのかもしれません。それ以上に妄想が拡大していくかどうか経過を見ることになるでしょうか。診断としては妄想でいいと思います。

次にEとして、隣の家もあり、猫もいて、さっきその猫が通りかかってこちらを見ていたのも事実だとします。そこで、隣の猫が私を見張っている、猫はそれを奥さんに報告する。でも、私は猫を愛している。可哀想な猫をいつか私は助けなければならない。私があの猫を愛するのは運命で、特別な愛なのだ。だから猫のためにも、穏便に対処したい。
と言ったとします。それに基づいて猫を助けるため隣の奥さんに暴力を振るうなどしたら明らかに問題ですが、そうではなく、私は猫を愛していると確信して心は満たされているとします。
隣の猫が私を見張っている、猫はそれを奥さんに報告する。との話は確かに変ですが、私は猫を愛していて、私の愛は本物だとの信念は、別段了解できないものでもないでしょう。そんなにも大好きな猫と暮らせないことはかわいそうなことで、そこから、隣の奥さんに対しての憎しみも沸くかもしれません。そうすると、猫は、私の愛を感じているけれども、奥さんに強制されて仕方なく監視しているのだ。監視しているとはいっても、そのたびに私の愛を感じることができるのだから、猫にとって嫌なことばかりではないはずだ。
などなどいろいろと考えることができます。了解でできてある程度共感もできそうです。私は猫を愛しているという信念が妄想の場合はあるのですが、それは無理に調べようとしても仕方がありません。ストーカーみたいになって問題が起こればやはり解決が必要ですが、私は猫を愛している、いつか幸せになれると考えているなら、妄想なのかもしれませんが、何かを愛するということはそういうことなのかもしれません。報いを求めず献身するだけの愛ならば、むしろ生きがいにもなり、いいことなのかもしれない。

Aは舞台設定がそもそも現実と違っている。
Bは舞台設定は間違っていないが、出来事が間違っている。
Cは舞台設定は正しい、出来事も正しい、しかしその解釈が現実とは考えられない。
DはCが猫は私を監視しているだったのに対して、猫は私を愛しているとなっていて、どちらも普通ではないですが、一応形式としては、猫が私を愛しているかどうかは要確認事項ですね。この人は命の危機に際してこの猫に救われるかもしれない。だとすれば、猫はこの人を愛していたのかもしれないと気付く日が来るのかもしれない。
Eは私は猫を愛しているというので、これは妄想かもしれないし、そうではないかもしれなくて、確認しようがない。また、現実には別段それを区別する必要もない。しかし理屈としては、私は猫を愛しているという考えは妄想の可能性もあるということです。

典型的にはCのタイプが統合失調症の妄想と考えられてきました。しかしこのように並べてみると、少しずつ目盛りをずらして連続したものと考えることもできそうではないですか。その場合に、どれも妄想の要素は考えられるのですが、Cの場合に妄想の可能性は極大になっているわけです。もちろん、事実関係として大きくずれているのはA、Bの順になります。
このように考えると、妄想のメカニズムとか、妄想の周辺の症状とのつながりを考えられそうに思います。

猫が単に通りかかっただけなのに、監視されていると結論を出すのは、たとえば、旅館に泊まって、布団に寝て、天井を見ていると、木目があって、その中に人間の顔とか、人間が何かの動作をしている姿が想像できたりする、また空に浮かぶ雲を見て、何かの形を思い浮かべたりする。また、シャワーの音の中に、電話の呼び出し音が聞こえたりする、こんなことと似ていると思います。過剰相貌化と呼んでいます。
もやもやした形が人間の顔に見える、もやもやした音が電話の音に聞こえる。それと同じで、もやもやした想念が妄想になる。ただ普通の場合は、それをこれは天井の模様、雲、シャワーの音などと訂正することができる。もやもやは正確に認識すればもやもやです。通常であれば、もやもやが妄想になる場合も、考えを訂正することができる。この訂正ができないのが妄想というもので、統合失調症で典型的に起こると考えれています。
もやもやが起こるのは普通だし、それをいろいろに解釈するのも普通です。ただそれを現実と照合して訂正できない部分が病気なのだという考えです。

そう考えると、AとBはどちらかと言えば、脳機能障害があるようですね、意識障害とか認知障害とか。Cのように事実認識は正しいのに、事実と思考のもやもやの照合ができるはずなのにできない、そして訂正もできないというのが病気ですね。

事実との照合と訂正をふたつの部分と区別して考えるとどうでしょうか。おかしいと気づいてはいるがどうしても訂正できないというのは、たとえば強迫性障害の形式に似ていますし、電車が怖くないことは理解しているのだけれども、やはり怖くて乗れないという恐怖症などの形式にも類似していますね。それは照合部分は正常、訂正部分が異常と認定できます。他方で、事実との照合がずれている場合は、それは妄想というよりは認知症とか意識障害とかそのようなタイプの病気に近いはずでしょう。

過剰相貌化の反対が離人症です。もやもやがくっきりした形、音、想念になってしまうのが過剰相貌化で、反対に、もともとはくっきりした形、音、想念であったものがもやもやになってしまうわけです。

この離人症の場合に何が起こっているかといえば、机の机らしさとか自分の腕の腕らしさが失われます。机はよく見るとしみじみと机らしいところがあります。その机らしさが失われます。

机の机らしさが異常に突出して感じられてしまうのが過剰相貌化です。

この辺りは言葉の定義によっては違う意味内容もあるでしょうから、これらは説明というより、私なりの定義と言ったらいいのかもしれません。

たとえばナトリウムの性質は、という場合、純粋なナトリウムの生成方法が共有されていて、実際のナトリウムはこれだという共通の認識がなければ、説明もむなしいはずです。

(つづく)