下書き うつ病・勉強会#29 MADセオリー#8

【基礎第八回】

ひとつのモデルとして、なるべく単純で広く説明可能なものを提示しました。

しかしこう考えたからと言って治療が決定的に変わるということもないのです。

MA細胞を保護して回復を待つだけ、それが治療です。現実には薬を少量使いながら、認知行動療法を実践する。

セロトラン仮説については、MとA細胞の機能停止の結果、セロトニンが減少するので、それを補うという話をしていることになるでしょう。そのほかにいろいろな仮説がありますが、どれを否定するというわけでもなく、必要に応じて、役に立つならば採用すればよいだけです。視床下部-下垂体-副腎皮質系(HPA)の話や脳由来神経栄養因子の話、ミトコンドリアの説とか、いろいろとあります。

睡眠や食欲を整え、自殺を防げるならセロトニンの薬もいいことです。

MAD成分の絡みあいが躁うつ病の本質であり、

時代を通して変わらない成分です。

ここまでの話では、社会との関連はまったく言及していません。

今日までのうつ病論諸説は医学論ではなく、途中から検証不可能な社会論になってしまっていたものも多かったと思います。その方が一般の人には人間論とか現代論とか日本人論として面白がられる。

その時々の流行りものだっただけで、

ネーミングがよければ、人々の印象に残る、その程度です。

世の中全体が頑張りすぎで、

それについていけない人をうつ病と呼ぶとしたら、

それは医学的な病気とは呼べません。

みんなが美白を目指している時に、

色黒の人がいたとして、

それを病気とは言わないわけです。

笠原先生の性格要素の4軸は、

1.精力性・強力性、2.強迫性、3.陰鬱気分の持続、4.対他配慮です。

1、2、3はMAD理論でぴったりですが、4.対他配慮についてはどう考えるか説明します。

対他配慮は以上述べたとおり、神経細胞レベルでのうつの本質ではありません。

時代精神と個人精神との相関で、非常に目立つものが、

対他配慮だったということではないでしょうか。

従って、そこはむしろ時代によって変わる部分です。

そこを本質の一部としていたら、

ドイツ・日本が世界の一流国になろうと努力していた時代の、

狭い意味のうつ病だけを本来のうつ病と呼ぶことになってしまいます。

他のすべては、不全型とか未熟型になってしまうわけです。

そうではなくて、

これまで説明したようなMADのかかわりがうつ病の中核と考え、

各時代を覆う優位な精神がそれらの中核症状を修飾すると考えます。

現代の状況を一つの特徴で現代のうつを言いあてることも無理なことだと思いますが、

ということはつまり、多様であることが特徴であると言えるかもしれません。

今までいくつか提案されているような病像は

それぞれによく病像を言いあてていると思います。

現代のうつ病の特性を説明するとすれば、病前性格としても、かつての執着気質やメランコリー親和型から、対他配慮を消去すればいいわけです。

対他配慮しなくても生きていられるならそれでいいわけです。

ただし、もっと大きなものが欲しいとか、

他人の持っていないものを欲しいとか思うなら、

対他配慮が有効です。

重要な相手が対他配慮に敏感な人なら、対他配慮は最善の戦略です。

死別やPTSDのときのルカニズムは、MAが疲労してダウンするメカニズムとは少し違うところがあります。

急速に起こりますから、うつというよりは一種の解離反応に近いかもしれませんね。

しかし最後にはMA部分が活動停止すとすれば、うつになります。

疲労して活動停止するのではなくて、たとえていえば急激なショックで仮死状態のようになるわけです。

いずれにしても M少A少D多 となることでは似ていると思います。

明らかにうつ病が増えていることに関して説明すると、

昔なら、たくさん労働するといっても、筋肉労働ですから、限界がありました。

頑張りすぎれば、うつ病よりも先に、肉離れするとか、アキレス腱が切れるとか、

あるいは筋肉疲労の蓄積とか、一般に、体から休めのサインが出て、休憩します。

しかし現在は、脳から書類やコンピュータへのアウトプットですから、

運動器官の疲労がストッパーになっていません。

せいぜい目が疲れるとか肩が張るとか、そんな程度です。

だから神経ばかりがどんどん疲れてしまいます。

従って、うつ病が増えるのだと思います。

自殺についてはよく分かりません。

私がここで書いて説明しているのは自殺よりももっと低次元の神経細胞の話です。

神経回路の場所を無視して、全体に分布する細胞特性に着目するというのは、広くは受け入れられない発想かもしれません。

しかし局在性と考えるとすれば、うつ病の、広汎な症状に見合わない気がします。感情から自律神経まで含み、最近では残遺症として認知症状が残ると言われています。全身を巻き込む何かで、生きる力そのものを根こそぎ停止させてしまうようなところがある。これは部分の問題ではなく、もっと全体の問題と発想して、こんなモデルを発想したわけです。

このMADモデルを使うと、「頑張りすぎたあとにうつになる、しばらく休んでいればいい、自殺だけしないように、大きな人生の決断を待つように」というあたりはぴったり説明できます。

うれしいことの後でもがんばりすぎればうつになります。子供はM成分が機能停止したりしませんからうつ病にはなりにくい。子供は一晩寝ている間にMとAは回復してしまう。

MとAが焼ききれるまで頑張るのを防ぐことが第一です。「頑張りがきく体質」ではなく、「頑張りを分散させる体質」に変える事です。その意味で、頑張りの上限を設定する薬剤が保護的に作用すると思います。気分安定剤ですね。

もともとてんかんの薬ですから、興奮しすぎるのを予防するわけで、そのことがうつ病の発生を予防してくれます。MAD理論で言えば分かりやすいはずです。

MAが焼ききれるまで頑張るのを防ぐには環境調整も大切です。生活スタイルですね。「仕事がのっているから」徹夜で連日頑張ったり、突貫工事したり、そんな習慣がよくないのです。毎日平均して働き、平均して休み、その日の疲労はその日のうちに睡眠の中で回復する、そんな気分が大切でしょう。

心がけはかなり有効です。「仕事を一気に一山で片付けよう」と一ヶ月通して頑張るなどとしないで、「山を三つに分けて、三ヶ月で片付けよう」と考えればいいわけです。

また、「一人で一ヶ月がんばる」のではなくて、「部下に分散して、複数の脳で並行処理する」方式を考えるべきです。完全に独創的な仕事はそうは行きませんが。なるべく分散しましょう。

精神療法は、主に心理教育になります。理屈を理解していただきます。そのあとは、理論にしたがって、「頑張りすぎ」をチェックして、予防し、がんばりのピークを分散させることです。葛藤で苦しむとしても、「先送りしておくこと」「待てないか考えてみること」「60%でも生きられるのではないか」「雨の日は静かに、雪の日は暖かく」です。

むしろ、心理的な深入りは無用であるという感じです。たったこれだけのことなんですから。ただ、頑張りすぎにならざるを得ない理由というものが、それぞれの家庭にあるものですし、それぞれの人生にあるものです。

それを検討して、なぜそんなにも頑張りすぎてしまうのか、精神療法的に取り上げることはいいかもしれません。

スキゾフレニーは、軽症化もあり、ほとんどうつ病のように見えるものも増えています。その場合はやはり、病前性格や適応の現状、生育の歴史、エピソードの詳細、対人関係の特性、世界観や人間観、価値観などをチェックすることになります。症状を見て基準にあてはめているだけでは足りない部分が多くあり、そこを補うために、患者さんの座標の在り方を知ろうとします。簡単ではありませんし時間がかかります。診察室で言語情報をやり取りしている間の、反応特性が重要な情報になります。言葉以外の、態度とか表情とか、臭いでもフェロモンでも、そのほかにも何か患者さんが発するもの、治療者に伝わるものがあり、治療者の心におのずと浮かんでくるものがあります。あるいは、普段は浮かぶのにこの人の場合は何も浮かばないなとかの場合もあります。私は未熟なのでその事情を言葉で詳しく説明することができません。言語的に思い浮かぶわけではないのです。

こう書くと曖昧で、確実性に欠けると言われそうですが、そうでもありません。

(1)世界中の人たちとはDSMやICDを使うことによって共通理解の基盤を保持している。

(2)日本の人たちとは、伝統的な精神医学の枠組みによって強い共通理解がある。

(3)おのずと心の中に浮かんでくる患者さんの奥にある像については個人的なものだから、世間に流通させることはない。

(1)と(2)で仕事には足りる。(3)は心中ひそかに治療の参考にしている事柄ですね。

例えていえば立体視などが近い感じもする。裸眼でもやもやした模様を見て、目の焦点を少し調整すると突然立体がくっきりと浮かび上がる。

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前に座標変換などと例えたが、話している間に、その人の座標変換の様子を感じるようにする。

座標変換と表現すると何か一次変換のように一度に全部が変わってしまうようなイメージがあるが、そうでない場合もあり、一部分が重力により空間が歪むのに似たことがある。

違う例えでいえば、磁場があると空間は部分的に特別な性質を帯びる。何も起こらなければ、磁場があることに気づくこともない。そのような特有な変化があるので、それを感じるようにする。

成育歴、家族歴、価値観、人生観、人間観、世界観、対人関係の特徴、使用している防衛機制、言葉の網の目の繊細さ、など。言葉でいえばそんなことに近いのだろう。

これが舞台の問題。

そのうえで、何が起こったのかを見る。ここは事実関係とその解釈の問題。

さらにその後の反応の特徴を見る。

例えば虫歯が痛いとして、反応として、悲観的になったりイライラしたり、八つ当たりもするし他人を責める、また自分を責めることもある。虫歯の現実と精神症状は別のことなので分別はしやすい。しかしもともとの障害が精神症状として現れていれば、その上に反応としての精神症状が現れるので、区別が難しいこともある。

ここまでで三層が見えていることになる。舞台と出来事と反応と言えばいいか。これらが総合されて立体像が浮かんでくる。座標とベクトルとそれに対する反応のベクトルの三者である。

I don’t want you to think that I’m a whack job or delusional when I say this. Well, think of it as a parable. Think of it as an essay.

These things are difficult to prove or disprove, so it is safe to avoid dealing with them. I am sure that some of the people who say this are frauds.

There is also the aspect that if it is shared, it is knowledge, but if it is not shared, it is delusion.

That’s why we call it natural science, an experience that can be repeated and replayed by anyone, anywhere, at any time.

It is not natural science to say that it is useless to say something because the other person is unintelligent and insensitive.

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