勉強会#31でストレス脆弱性モデルについて言及した。今回はそのあたりを勉強したい。
精神病の発病メカニズムについては、大きく分けて二つの考えがあった。(1)人間が通常経験する悲しみや気持ちの落ち込みの延長として考える学派があり、そこでは「A.ストレスモデル」を用いる。一方、(2)精神病は脳内の未知の病変によって引き起こされる病気であり、脳を舞台として起こる器質性疾患であると考える立場があり、そこでは「B.脆弱性(vulnerability)モデル」が用いられる。
(1)は悲嘆反応とまとめて呼ばれるものである。
軽度のものなら、親友との別れ、中程度のものは肉親の死亡、重度のものは戦場での死の恐怖や大災害においての死の恐怖などが考えられる。こうした体験の極限として、ある限界を超えると精神病に至るのではないかと考えるのは自然で素朴な発想だと思う。悲嘆の原因になるものをストレスと呼んでいる。精神病をストレスに反応しての結果と考えるのがストレスモデルである。
このように考える人にとって、悲嘆の感情は時がたつにつれて癒されるものとしてとらえられているだろう。また悲嘆の強度としては、自殺しようとするくらいが最高限度であってたいていは、ストレスの種類に応じて、その所属する集団内での習慣に従って、その習慣の範囲内に収まるものと考えられる。どの期間喪に服するか、どのような形式で喪の時間を過ごすか、どのような言葉で慰めるか、どのくらい酒を飲んでもよいのか、それはそれぞれの歴史を背負った習慣に従う。49日とか三途の川を渡るとかいろいろあるが、そのいちいちを妄想だと言うことはない。文化に規定された習俗に属する。
しかし、そうした集団の習慣の範囲を超えるものに対しては、何か特別なカテゴリーが用意される。昔なら宗教的な解釈が流通していた。現代では病気である。病気であるという厳密な証明はされていないが、経験から言えば、やはり病気だろうとの考えが共有されている。しかしその場合の病気という言葉は何を指しているか大変曖昧である。単に習慣としてそう呼んでいるに過ぎない。大衆の概念把握は大変曖昧で大雑把なものであって、説明しろと言われてもできないことが多い。その土地に育った人間として普通のことと思っていたことを、別の地方の人に説明するときとか、アメリカの人に英語で説明するときなどは一体自分たちは何をしているのか、説明に戸惑うだろう。北枕とは何かを説明するなど簡単なことだろうか。
ストレスモデルでは、人間には大体平均的な素質が共有されていて、中に未熟であったり、わがままであったり、しつけが不十分な人がいたりすると解釈し、それは例外として扱い、たいていは同じストレスに対して同じ反応を呈するとぼんやり考えるらしい。
現代で、いつも繰り返される説教が、「みんなつらいんだ、それでも耐えているんだ、なぜお前だけが我慢できないのか、おまえは甘えている、もっと大人になれ」などの言葉である。
しかし、たとえば、何かいたずらをしたあとで担任の先生に10人の生徒が呼び出されて、叱られた。そのとき10人のうち、3人は涙を流して泣いてしまった。という場合ならば、先生は平等にみんなを叱ったのだけれど、個人によって泣く人と泣かない人が発生する。
このばらつきに対しての自然で素朴な解釈は、生まれつきの性質と生育の歴史などの、ストレスを受け止める個体側の事情を重視するものである。それを脆弱性モデルの萌芽と考えてよいだろう。
中にはほんの些細なストレスに対して過剰に反応する人もいて、集団生活をするにあたってその人も周囲も困ることがある。みんなが困ったから病気なのかどうかについては厳密な考察が必要である。そんなものは病気ではないと反精神医学的に主張することもできるかもしれないし、また、みんながそう思うということは、何か深い理由があるのではないかと、思考の出発点にすることもできるのだと思う。最近ならば進化生物学などを援用するだろう。
(2)は肝臓が肝硬変になるようなもので、脳の器質性疾患を想定する。しかしどのような疾患なのか不明なので、内因性精神病という特別な用語を用いる。このような、脳の脆弱性を病気の原因と考えるのが「B.脆弱性モデル」である。
生まれつきの性質と生育の歴史といっても、それぞれの流派により考え方は異なる。極端なものは、「B2.内因性精神病モデル」であり、生まれた時から目覚まし時計がセットされていたかのように、何のきっかけもなく、20歳くらいになって発病すると説明されていた。
しかし子細に事情を探ると、生まれつきもあるけれども、生育環境もあり、現在の脳が生成されたと考えるようになる。それは内因性概念とは少し違う。現在の解釈ならば、遺伝子の発現に際して環境汚染などの物理的環境や心理社会的な環境が作用し、一卵性双生児でも違いが生じるとする。それをエピゲノム論という。つまり、脆弱性モデルの輪郭はぼやけて拡散している。
(3)さらに詳細に調査すると、.脆弱性モデルで考えるとしても、やはりストレス反応の要素もあるのだと理解されるようになる。そこで、ストレスモデルと脆弱性モデルの折衷案として「C.ストレス脆弱性モデル」が提案される。
ストレスモデルは、ストレスが強烈すぎるときは強烈な反応が起こっても当然だろうと考える。極端な反応も、ときには正常な人間もそのようになるときがあるものだとして許容する考えである。一方で、そのような極端な反応は、精神がたるんでいる、鍛えれば誰でも耐えられるようになるとの精神主義的な含意があると思われる。
たとえば洋服のサイズはSMLくらいを用意しておけばだいたい足りるという立場である。だいたいは手が二本だ。だからシャツの形ができて大量生産できる。身長は1メートルと2メートルの間くらいだ。そこから天井の高さもだいたい決まる。
血液を検査すれば赤血球の数はある範囲に収まり、肝機能の数値はやはりある範囲に収まる。このあたりから人間はそんなに変わらないと考えるようになる。その延長にストレスモデルがある。優しさとか共感とかが有効な世界である。
ストレスが原因だろうと考えるのは素朴で自然なことだと思う。
それ以前には悪霊とか霊魂とかそんな感じの何かを人類は普遍的に考えて共有してきた。人間の脳の特性である。そこまでさかのぼるつもりはないけれども。
それに対して内因性精神病モデルは、悲観主義的であり、自動的に目覚まし時計が鳴るのを受け入れるしかないと考えるだろう。
人体解剖学や身体的な病気を医学として勉強すれば、人間は徹底的に物質なのだと思い知ることになる。その結果、おのずと内因性精神病モデルを受け入れるようになると考えられているし、それは当然だと思う。
人体解剖を経験する以前の人間の思考は、あまりに心理学的であまりに文学的であったことを知る。
これもまた医学研究の最前線に立つという立場を考えれば、当然の考えと言えるだろう。
しかし、ストレスモデルと脆弱性モデルを比較してみると、両者ともいかにも極端であると思われる点もあり、実際は両方の原因が影響していると考えればうまくまとまるだろうとするのも理解できる。
戦争や大災害の後のPTSDなどはストレス要因が大半であり、むしろその後も平気な方が、あまりに標準規格から外れたものだろうと思う。だからストレス要因は明らかに排除できない。
しかしまた、些細と考えられるストレスに対しても過剰に反応する個体があるのも事実で、その場合は脆弱性を排除できない。一卵性双生児の場合に似たような反応を示すことも多いので、それは脆弱性だと考えられる。
それなら中間をとろうということでストレス脆弱性モデルが提案され、これは誰も反対しない優勢説となった。
しかしこの説はなんだか当たり前のことを言っているようで、同義反復のような気がする。だから、この説に特段反対もできないが、ここを基盤として何かいい考えが浮かぶわけでもない。「病気の原因をストレスと呼ぼう。結論としてはストレスが病気の原因だ」と言っているだけだ。
つまり、外側からの衝撃の大きさつまりストレスと、内部の耐える力の弱さつまり脆弱性、の兼ね合いで病気になるかどうかが決まるというのだが、考えてみれば、ストレスの実体も不明だし、脆弱性の実体も不明ではないか。病気になりました、実はきっかけとしてこんなことがありまして、と話があれば、とりあえずそれはストレス因だと認定される。病気になったからストレスと認定しているわけだ。脆弱性についても同じで、病気になりました、調べてみると家系には病気の人もいたとなれば、脆弱性ありと認定される。病気になったから脆弱性を認定されただけではないか。とすれば、病気の原因は病気の原因だと言っているに過ぎないだろう。
たとえば強い外力が加えられて下腿の骨が折れたとする。その場合は、外力の強さと、下腿の骨の弱さとの兼ね合いで、骨折になるかどうかが決まる。外力の強さと骨の弱さの二つが問題だというが、それは言うまでもないことだろう。
問題なのはストレスはどのように脳に対して影響を与えるかという点であって、それによって、ストレスの評価法も定まってくる。それが分からないうちは、結果として精神病になったから大きなストレスだと認定できるといっているだけであって、精神病という結果を見るまでは何とも言えない。
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ストレスがどのように脳に影響を与えるかについては様々な報告が錯綜していて、まとまった見解を述べることは難しい。代表的なものはコルチゾールを測定してストレスの影響を見るものであるが、だからと言って、コルチゾールを直接調整しても、うまくいくわけではない。
ここをもう少し説明すると、感情障害では視床下部一下垂体一副腎皮質系(hypothalamo-pituitary-adrenal axis:HPA系)に対するフィードバ ック機能が減弱していることが分かっている。40年前のハリソン内科学書にも記載されていた。
健常者に長時間作用する合成ステロイドのデキサメサゾン (DEX)を前夜に投与してグルココルチコイド受容体を刺激しておくと、翌朝、副腎皮質刺激ホルモン (ACTH)の分泌が抑制されているので、コルチゾール濃度が低下し、午後に副腎皮質刺激 ホルモン遊離促進ホルモン(CRH)を注射しても (DEX/CRH試 験)、ACTHやコルチゾール分泌反応はほとんど起こらない (DEX/CRH試験での抑制反応)。 しかし、約75%のうつ病症例ではDEX/CRH試験でコルチゾール濃度が著明に増加 し、フィードバック機能の低下が明らかである (非抑制反応)。その後、抗うつ薬療法が奏功すると、コルチゾールの過剰反応はほぼ正常化し、抑制反応になる。
したがって、 この感情障害におけるHPA系の過剰に対するフィードバック機能低下はうつ症状の改善とともに正常化する状態依存的な性質をもつことになり、うつ病の生物学的マーカーと考えられている。動物実験では抗うつ薬の反復投与が海馬のグルココルチコイ ド受容体発現を増加させ、HPA系を抑制することが知られている。この抗うつ薬の効果がうつ病のHPA系の非抑制を正常化している可能性があるが、うつ病の海馬におけるグルココルチコイド受容体発現の異常についてはまだ解明されていない。
しかし、DEX/CRH試験でこのHPA系の制御機能低下を最初に報告した論文では、非発症のうつ病家族にも軽度ながら認められることを報告しているので、うつ状態非依存的な素因的マーカーである可能性もあることになり、ストレスによって誘発されるうつ病の発症脆弱性のひとつである可能性がある。
このフィードバック機能の低下という脆弱性をもった個体がストレスに曝されて、HPA系の機能元進が持続し、高コルチゾール血症となると、通常の血中レベルのコルチゾールでは部分的にしか占拠されていないグルココルチコイド受容体が刺激され続けることになり、摂食行動の抑制、意欲的行動の抑制、悲哀感の増加を引き起 こすとともに、嫌悪体験の記憶の促進、嫌悪刺激に対する過剰反応を引き起こす機序のひとつであると考えられる。
(本筋からはそれるが、嫌悪体験の記憶の促進については、私はうつ場面連続想起と呼んでいる。いいこともあったはずなのに、なぜか、悪いことばかりが数珠つなぎになって勝手に想起される。こうなるからうつになるのか、うつになったからうつ場面連続想起になるのか、よくわからない。)
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話を戻して、骨の弱さの実体についても、カルシウムの量なのか、骨の粘りなのか、あるいはとっさの反射神経まで含まれるのか、よくわからないが、それらの総和としての脆弱性なのだろう。骨よりもずっと複雑な脳については、何が脆弱性なのか測定しようもない。やはり結果として病気になったのだから脆弱だったのだろうという程度の推定しかできない。
やはりトートロジーになっていると思う。
生まれつきのものだというよりは少しマシという程度で内因プラス外因だというのならば、それは当然のことだろうし、ということはモデルにもなっていないし、仮説にもなっていないというのが結論である。
遺伝ですべて決定されるとか、遺伝の要素はゼロだとかの極端な説よりはいいという程度だ。
脆弱性の中身を具体的に検討すると、当然まずDNA研究である。
DNAを調べれば何か見つかるはずと思ったけれども、結果は、統合失調症と気分障害に共通する遺伝子しか見つからなかった。
この時点で、統合失調症と気分障害は根っこでは一つのもので、病気が発現する過程で二つまたは三つ以上に分かれているだけではないかとの考えが出た。この単一精神病説は以前からあって、細かく見ればいろいろなタイプがあるだろうが、日本でのそのひとつは根本の病気は感情障害だとの少数強力説だった。
さらにその後、気分障害にも認知障害が見られることが確認された。統合失調症と気分障害とを分けて、認知領域と気分領域に対応させることができるわけではないことが分かった。ますます根っこは同じひとつのものかと考えられた。
遺伝素因の研究で双子研究があり、遺伝素因は確かに関係があるが、100%ではないことが分かった。つまり内因だけではなく外因も関係していることが分かる。
現在症状の研究からも、経過研究からも、DNA研究からも、統合失調症と気分障害は二つに分けられないらしいということになった。一方ではストレス脆弱性モデルが妥当だとされ、精神病は外的要因と内的要因の二つの兼ね合いで発生するという、実に当たり前のモデルになった。精神病に特有のことではなくて、たとえば骨折でも同じ論になるし、そもそも当たり前すぎて、何もわかっていないというのと同じだろう。原因はストレス100%というのもも間違いだし、個人のDNAが原因の100%だというも間違いだということを言いたいのだろうか。ただそれだけらしい。認知療法で0か100かの認知の偏りが言われるが、まあ、そんな感じである。
という反省があり、レジリアンスモデルが登場した。なんか、今日はくどいな。いろいろ連想を書くとこうなった。(つづく)