進化生物学でいわれること。第一には自分の遺伝子をなるべく多く残す。第二には自分に近い遺伝子をなるべく多く残す。第一は利己的行動と言われるもの。第二は利他的行動と呼ばれるもの。
進化生物学の成果は、利他的行動の遺伝子的な意味を解明し、実は自分に「似た」遺伝子を多く残すことであり、自己的遺伝子と同じことなのだと説明できたこと。
表現の問題があって、自分の遺伝子をなるべく多く残すように行動するというが、そのように目的論的に行動を選択しているわけではない。偶然ある行動を好むような遺伝子プログラムが発生して、その結果として、その個体は自分の遺伝子を多く残すようになった。そして時間がたてば、その遺伝子を分有する個体が集団内で多くなった。というような現実を、説明のために、目的論的に表現している。
さて、意識と遺伝子の問題。進化生物論的に上記のように説明されるのなら、その原則通りの意識を発達させれば、有利に違いない。
集団への忠誠の意識は、自分と似た遺伝子の好き残り・拡散に有利と考えられる。
諸宗教でも、利他的行動は推奨されてきた。天国に行けるとか輪廻の輪から脱するとか説明されるかもしれない。そのあたりは、進化生物学と人間の意識・価値観の一致として解釈できる。
大家族主義などは強い利他的行動の集団で、自分に似た遺伝子の生き残りを最大にする方略として有効だったのだろうと思う。正確には、偶然大家族主義を採用したら、遺伝子が多く拡散したということになる。
現代の核家族化とか少子化とかそのあたりは遺伝子の拡散には逆行する脳の判断であって、時間が対馬淘汰されてゆく遺伝子ということになる。
たとえば国家による福祉と、大家族制による福祉と、どちらが人間の脳として納得できるシステムかといえば、後者だろう。国家による福祉は、自分に似た遺伝子が拡散するのか、自分とは違う遺伝子が拡散するのか、結果が見えない。したがって遺伝子の拡散には能率が悪い。だから国家による福祉は年月が経てば廃れる運命にある。
言い方を変えれば、福祉の範囲は、遺伝子の共有がどの程度かによって、利他主義の強さも異なることになる。このあたりも全部、目的論と自然淘汰論と混同しないで読み替えてほしい。
遺伝子の共通性といっても、人間同士であるなら、ゴリラと比較すると、遺伝子共有は多い。だから、ゴリラに対して利他的になる根拠があるとは思えない。ここのところは、環境保全とか、全生物に対する愛などの話になるのかもしれない。それらは当然多くの場合人間の遺伝子保全に役立つことだろう。
全人類という枠組みからもう少し狭めて、アジア系、白人系、黒人系、ヒスパニック系、などと考えると、それは遺伝子共有の割合だろうから、それぞれの内部では自然な形で利他的感情が芽生えていいはずだろう。
しかし実際には、たとえば東南アジア系内部で競合することが多いので、遺伝子は近いけれども、対立しているという場合も多くある。それはスケールを縮小して、兄弟などの場合でも、近くて利益が競合するから反目することも多い。その場合は、自分の遺伝子のほうが自分に近い遺伝子よりも大切ということになる。
その次にの部分集合は、国家ということになるだろう。国家というものもよくわからないもので、民主主義がグローバルな価値だと言いながら、国連は10億以上の人口がいるインドも中国も一票であるから、制度としておかしい。通信技術が発達すれば民主主義的世界政府というものも考えられるのだろう。
それはそれとして、国家の中でも、遺伝子共有が強い人たちと弱い人たちがいるならば、強い人たちの生存繁殖には協力したいと思うだろう。遺伝子共有が弱い人に対してはあまり利己的にならないだろう。まあ、大雑把な話だけど。こんな話にはいくらも反論ができるだろう。一応話を進める。
そんなわけで、意識の原則と遺伝子の原則が一致しない状況があると思われるのが問題である。
意識の面で、これも目的論的な言い方なので後で言い換えてほしいけれども、子供を作らないで生きてゆくというのは、つまり自分の遺伝子を拡散しないということだ。そして、そのことで自分に似た遺伝子の拡散を手助けしているかといえば、そうでもない場合もある。子供は持たないで「世の中に役立つ」といえば、なるほど、薄められた形ではあるが、自分に似た遺伝子を残すことに寄与しているのは確かだろう。しかし薄い。そのことによる喜びは脳が考えた末に到達する喜びであって、原初的な喜びではないと思われる。
世界人類のためとか国家のためとかいろいろな集団利益のためといえば、薄められた形の利他主義になるけれども、その場合の問題点は、利他的行為によってだけかの遺伝子の生き残りを助けたとして、その遺伝子が将来、自分により近い遺伝子を消してしまうかもしれないという危惧はある。
逆に、男性の場合、多数の女性と配偶行為をして遺伝子を拡散することも実際可能である。女性の場合、托卵というが、男性を欺いて、その男性ではない遺伝子の子供を実子のように男性に養育させることも少なからずある。この辺りは現代の倫理には反することだろうけれども、根強い行動パターンということになるだろう。その方が自分の遺伝子を残せるから。
古い制度や習慣、考え方、価値観の中には、自分のまたは自分に似た遺伝子の生き残りのために役立つと思われるものがいろいろあると思う。その方が意識の原則と遺伝子の原則がぶつからないので、安心できる面があるだろう。
そのような意味では、人類が合理的に考えて、脳が作り上げた価値観よりも、ずっとずっと古い考え方のほうが根強くて、安心できる、という事情になっているらしい。
もちろん、古い制度や価値観の中には、遺伝子原則に反するものがあるし、ちょっと調べただけで、権力者のわがままな考えだったり、宗教的権威者の自己利益のためで、民衆の遺伝子拡散には役立たないものは、たくさんある。それらを遺伝子拡散に役立つ行動傾向と一緒にするのは間違ったことだ。
しかし人間は利己的なものだから、権力を持てば、民衆の意識を書き換えたいし、歴史を書き換えたくなる。宗教指導者などは現実には歯止めがないので行き過ぎる傾向にある。そのようなものもまた遺伝的プログラムの一部なので困ったものだと思う。しかしどうしようもないのだろう。よくないと思うこと自体が、合理主義が行き過ぎた結果として間違ってそのように思っているのかもしれないし、自分はそのようにならなかったことを前提に考えているからそう考えるだけであって、自分がその立場になったらきっとそのようにしているに違いないだろうとも想像できる。
集団というものは理念が違っても、集団のメカニズムは類似しているものだ。