下書き うつ病勉強会#102 躁とうつと通電療法

・うつ状態と躁状態を対比させて考えるとして、うつ状態では頭にブレーキがかかり、喜びも悲しみも感情は遮断され、といったようなことが生じ、反対に躁状態では、芸術的な発想がわいてきて、科学的にブレイクスルーでパラダイムシフト的な発想にあふれ、文学的に深い言葉に満たされ、宗教的な高みに上るのかといえば、それはそうではないとも言われている。

・実際の普通の人の躁状態とうつ状態では、うつ状態の方が人格としてのまとまりが保たれていて、人格機能が維持されている、それにたいして躁状態の方は人格のまとまりがなくなり、人格機能は低位状態になると言われている。

・躁状態はお祭りの狂騒の中にいるようなもので、芸術や宗教や学問には適さないもののようである。歌うと踊るとかには適しているのかもしれない。

・ただ、過去の天才の中には、躁うつ病と推定される天才がいたことも、よく言われることだ。それは躁うつ病のゆえに成果を達成できたのか、躁うつ病があったにもかかわらず達成した天才というべきなのか、難しい。

・これに対して、統合失調症と芸術や学問の傑出した業績を残した天才との間には細いけれども強い関連があるものと考えている。

・芸術家の精神に病的な発作が起きて、芸術が創作されるというものではないようだ。そのように見えることがあるかもしれないが、精神病の発作は常に崩壊性であると思われる。

・躁状態の狂騒はと熱狂は、例えば、棟方志功の作品提出時の様子を見て、躁状態かと思うだろうか、多分、そんなことはない、あれば陽気なだけである。

・統合失調症と天才の関係は特別なものがある。確率的に拡散する遺伝子は、ほんのわずかの成功を生み出すために、きわめて多くの不成功を生み出している。それがダーウィン的な仕組みだから、それでいいのだろう。

・てんかん発作の一部では宗教体験に相当する経験をすることもあるらしい。そのメカニズムはどう考えればよいのかはっきりしないが、昔から尊重されてきた。ドストエフスキーの描く人間にはこのような刻印がある。

・てんかん発作では、脳回路の中を異常電流が周り続けるイメージがある。坂道を転げ落ちる雪だるまが大きくなるように、異常電流のサーキットは止められない。その状況で、それに関係した多くの神経細胞は死滅する。こうした、発作による細胞死滅を受けて、新しい神経細胞を育て、新しいシナプスを作る回復作業がはじまる。また、これまで、特に役目を持っていなかったスペアの役目の細胞が、死滅した細胞に代わって、新しいシナプスを形成し、代替となり使命を果たすようになる。

・火事と焼け跡の比喩で言う、火事は、てんかん発作が最もふさわしいものと思われる。てんかん発作後のうつはしばしばとは言えないかもしれないがある程度の頻度で見られる。

・てんかん発作と似たような状態を人間の手で生じさせる治療法に電気ショック療法といううものがある。最近では麻酔を使用して、無痙攣性通電療法と言ったりする。頭骸骨の外側に電極をつけて、そこに瞬間的に大電流を流すことは治療としてどのような意味があるのだろうと考える。不揃いになってしまった各細胞の周期を同期させることはイメージしやすい。あるいは、弱って死にかけていた神経細胞を完全に死なせてしまう効果があるのかもしれない。また、全体に一時的に細胞活動を停止させるのかもしれない。そしてゼロからのリスタートを指せることができるのかもしれない。どこを狙って電流を流すということもない、全体に通電するのだから、全体の細胞に対して何かの効果があるのだろう。あるいは、昔々は、電気はエネルギーだからとかエネルギーを与えるのだと思ったかもしれない。病気の人が、死なない程度の雷に打たれて(そんなことがあるのかどうかわかりませんが、木に雷が落ちて燃え上がることなどは観察していたでしょう、そうすると、雷は木を火にして燃やしてしまうような不思議で強力なものだと思うはずだろう。また、時々てんかん発作を起こす人は、統合失調症の妄想やうつ病の抑うつが消えるとの観察があったのかもしれない。)調子が戻ったとかの経験があるかもしれず、雷は電流なのだから雷に打たれるのと同じ効果があるのではないかとか、そんなイメージがあったのかもしれない。

というわけで、次には通電療法について。