下書き うつ病勉強会#151 笠原先生の2023年のお話

笠原先生の2023年のお話

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小精神療法の核は「患者を助けたい」という医療者の素朴な愛情―どの精神療法家にとってもそれは同じと思います。

なぜ私は、精神科医になると決心したのか。敢えてこれを選んだのはなぜだったか? 小精神療法の歴史を語ろうとすると、どうしてもこのあたりまで遡らなければならないように思うのです。すでに旧制高校の頃からオマセな友人にひっぱられて、フロイトaやマルクスbをかじり、医学部志望のくせにクラシックや演劇にも少なからぬ興味を持っていました。

医学生になってからは多少こうした偏向ぶりは是正されましたが、1年が過ぎたときに友人の1人が「自分は医学部には合わないと思うので」と言って法学部へ転科しました。開業医の子息でしたが、父君は反対しなかったそうです。

医学部の3年生か4年生のときに、医学生が編案する学内用の小冊子にたまたま精神科を特集する号が編まれ、村上仁先生cと満田久敏先生dという両巨頭の論文が転載され、ホットな対決をあおるような解説が附されていました。この特集によって1年間怠け者だった私は一挙に覚醒しました。その後は、御迷惑も顧みず精神医学教室に入り浸り、その延長上で入局を許されます。

私と同級の精神科入局希望者は3名にすぎませんでした。しかしその翌年には11名が入局しました。これは教授が新任になったからでした。

勇んで入局したものの、いろいろ「体験」がありました。6つあった病棟のうちの2つの重症閉鎖病棟には独特の「臭気」があって、病棟へ行く元気をなくさせました。いろいろ考えて選んだ「精神科」だったのに、「こんなことで初志を貫徹しないなんて」と考え込みました。辞めなくてよかった、と思ったのは、後に新しい病院が続々と建てられるや、この臭気は完全になくなったからです。

同じ頃、プラスの経験もありました。女性の重症病棟を始めて訪れた時のことです。ヒステリー*eの中年の女性患者が若い看護師の介護の仕方に不満らしく、なかなか食事をしないで困らせている場面に出くわしました。私は間髪を入れず、看護師に代わり、 食事の介助をしました。一瞬患者さんは戸惑いを見せましたが、後は素直に私の介助を受け入れました。

これを傍で見ていた婦長さんが「精神科医はこれでなくちゃあ」と褒めてくれました。私には姉妹がいましたので、女性へのこの種の接近はごく当たり前のことだったのですが、たしかに当時の男性医師はそうした行為はしなかったようです。それどころか、病棟へ再三足を運ぶということさえなく、運んでも長話をすることはまったくありませんでした。そもそも、ほとんどの入院患者が統合失調症で、カルテにもドイツ語で短い単語が2つ3つ書かれているだけでした。薬物療法が始まる以前の病棟のことです。

重症病棟の男性看護師は今のように教育を受けていなかったので、目に余る行動が随所に見られました。若い新米の医師が、中年から初老の男性看護師にたまには声を荒げて説教する。あまり見よい光景ではないと思いつつ、苦言を呈しました。そのうち看護師の中から私に手紙をくれて、質問してくれる人も出てきました。できるだけ丁寧に返事し、相手もそのことを多とするようになりました。こういうことは後にも先にもなかったと。

他方、受け持ちの入院患者さんはいろいろと増えましたが、当時は、認可された治療薬もなく、限られた治療手段ではなかなか上手くできません。それでも狭い運動場で「三角ベース(野球を簡素化した子供の遊びの一種)」をしたりすると、見違えるほど患者さんが自然な感情や動作を見せるので不思議でした。この時ばかりは若い看護師も生き生きした表情で患者さんに応じていて、ほほえましい光景でした。この経験はやがて運動療法、開放病棟へとつながります。統合失調症はけっこう複雑な構造の病気だと直観したのです。
そしてやがて薬物療法の時代の幕が開くのです。
*a
ジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、精神科医)

*b
カール・マルクス(ドイツの哲学者・経済学者・革命家)

*c
精神科医(1910-2000)。京都大学名誉教授。

*d
精神科医(1910-1979)。大阪医科大学名誉教授。

*e
神経症の一種であり、精神医学において転換症状と解離症状を主とする状態に分かれて研究された過去の呼称(参考:小此木啓吾、大野 裕、 深津千賀子 『心の臨床家のための必携精神医学ハンドブック』創元社、1998年、167-169頁。ISBN 4-422-11205-8)。
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薬の登場と発展、他領域からの精神科診療への参入により、精神医学の在り方は大きく変わった―その現場に立ち会えたことはとても幸運だったと思います。
そのうちに薬物療法の時代が来ました。でも、薬物療法が他科と同様に効果をもって完成できたのは「外来」での「軽症うつ病」治療に際してでした。

いつも不思議に思うのですが、薬の効果がそんなに認知されたわけでもないのに、早くも外来にはそれに見合う病人が数多く訪れます。とくに「うつ病」の場合は著明でした。当時ドイツの留学から帰ったばかりの平沢一(ひらさわはじめ)*aという一級上の先輩が「これからはうつ病の時代だ」と言って外来の体制を整えたことで、外来はにぎやかになりました。その頃の記録を読むと、軽症うつ病は3ヵ月ぐらいで治る、と私自身書いています。いや3ヵ月では開業医たちが困る、6ヵ月くらいにしてくれ、といった声のあったことも同時に記入されています。

私の「小精神療法」はこの頃に始まるのです。薬だけではだめだ。もう少し長く診る必要がある。初めは外面的な「7項目」を言っていましたが、やがてもう少し内面的な「小精神療法」へと「格上げ」しました。たとえば、少し良くなると仕事に行きたくなるのですが、それはまずい。なぜなら、本当によくならないと仕事に出ることはマイナス以外の何物でもないからです。「内因性」という独特の原因性の所以、と私は思います。

しかし、いちばん厄介なのは、「自殺」の危険が折にふれて出没することなのです。これさえ防げたら、治療は大方成功と私は考えていました。あとは一定の時間待っていただければよいのですから。

「3ヵ月から6ヵ月で『うつ』は消えても、しばらくは医師のもとへ通って下さい。半年に1回でもよいから」と、私は患者さんに伝えています。要は病人の方が医師のもとを訪れることを嫌がらないように医師が主導することです。丁寧に治療して、職場の上司にも入念な報告を怠らなければ、1ヵ月から2ヵ月くらいの欠勤なら許容してくれます。私は「うつ病」の人には結婚し「子供」をもうけることをすすめます。子供を持つと(多少ですが)自殺率が減るように思うのです。統合失調症の場合は、子供を持つことを勧めませんが、敢えて止めもしませんでした。それは大勢の人の「病後の生活史」を追いかけていると、意外に「健康な子供」を持つ人が少なからずいるからです。

ある大企業で何百人といる万年係長の1人で、定年をなんとか迎えた精神病の男性が、立派な奥さんをもち、2人の青年を育てたのには驚かされました。2人とも大学を出ました。奥さんは夫よりもこの2人にすべてのエネルギーを注ぎました。2人にはこれから先がまだありますが、30歳近くまでno problemであったことは注目するに足ります。同様の例はいくつかあります。統合失調症の緊張型の場合、とくに京都学派のいう非定型精神病*bの場合は当然です。非定型精神病のある男性は英語の先生で、高校の教師になり、さらに組合の委員長を勤め上げ、70歳で退職しました。50歳くらいのとき、この人は結婚しました。「結婚相手に会ってくれ」と言うので、女性とその母親に会いました。20年後の今日、平和に暮らしています。最近の遺伝の論文を読んでいないので、責任のある発言はできないのですが、巷間言われるほど精神病の遺伝は強力ではないのではないか。楽観すぎる、と叱られそうですが、薬物療法後の統合失調症の病後についてのそういう観察者もいる、ということくらいは知っておいて下さい。
*a
京都大学医学部出身の精神科医。日本で初めて「軽症うつ病」の概念を用いた。参考:鈴木南音、「1960年代以後の日本社会におけるうつ病の概念的変遷(1)」、千葉大学人文公共学研究論集、38号、160-177頁。

*b
1940年代に満田久敏先生により提唱された概念。急性精神病状態を呈し、短期間で寛解するものの周期性の経過をとり、予後が良好な一群を指す。
参考:兼本浩祐、精神科臨床 Legato、2016年7月号(Vol.2 No.3)
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その後、外来への傾斜度が増すにつれ、「軽症系」に関心が移った。すなわち「双極型うつ病」「外来分裂病」「境界例」というように。これはすべて「小精神療法」下での産物です。

「軽症うつ病」を数多く診ていると、ときどき「躁うつ病」が混じりました。これに対して、薬を用いて治療するわけですが、それでも再発がないわけではありません。性格的に執着性格(下田光造)*aのことが多いので、普通は通院を怠りません。そこで、最小限の薬を用いながら、長く治療を続けることにしました。私の経験の範囲ではこの方法でおおむねno problemでした。

「外来分裂病」bという私が名付けたこの病名は(誰も正式には使ってくれませんでしたがが)私は気に入っていました。純粋に治療用にのみ作られた概念で、それだけに「曖味さ」を持ち、決して国際用語になる心配(?)はなかったので、折からのDSM-IIIcの下でこれを使うのは少し恥ずかしさがありました。

しかし、今から振り返ってみると、長く診ること、少なくとも10年はフォローできること、小精神療法を追求できることにおいてこの一群は秀でていました。私の患者さんの中で10年通うのはこのタイプがいちばん多いのです。この概念をペーパーにしたのは1981年でしたが*d、そこに「例」として記載した2例は今でも診察室での交流があります。私との「きずな」なのでしょうか。

また、若い女性の患者さんが境界例と診断される状態に陥り、その治療にずいぶん苦労しました。長い経過でした。何人かの精神療法家のお世話にもなりました。30歳代に入り、「小精神療法」的に応接するしかありませんでした。その間に両親が死去し、本人も思い切ってスマホで良縁を求め、幸い有能な男性と結ばれました。その後、生まれた土地とは遠く離れた場所で還暦を迎えました。ちなみにこの女性の治療には私の勤務するクリニックのオーナーである女性精神科医の助けを求め、成功しました。境界例の治療には同性の治療者が必要不可欠な場合もあるのではないでしょうか。
*a
下田光造(1885-1978、精神科医。鳥取大学・九州大学名誉教授)は、躁うつ病に特有な病前性格を見いだし、これを「執着気質」と名付け、この気質が躁うつ病の発症に関係すると考えた。
参考:下田光造賞 | 日本うつ病学会 Japanese Society of Mood Disorders (secretariat.ne.jp)

*b
入院せず外来で治療する分裂病(現在の統合失調症)。参考:笠原嘉. 精神病と神経症 第 1巻.みすず書房; 1984: P295− 311.

*c
精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)第3版。最新版は2022年に出版されたDSM-5-TR(第5版テキスト改訂版)。

*d
笠原嘉. 外来分裂病(仮称)について. 分裂病の精神病理(10); 1981: 23-42.
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「精神疾患は予想されるよりよくなる」ことを示せれば、世間の理解や興味は深まっていくのでは?

最近ある専門誌を見てみたら、執筆者の欄は精神科医師やカウンセラーでなく、社会心理学や社会福祉に関わる方々で占められていることに気が付きました。このように多くの立場の方々が興味を持つに至ったきっかけは、薬が登場し、精神疾患の患者さんが回復することを世間に示せたからだと思います。精神疾患のお子さんを持つ親御さんへのサポートはまだまだ十分とは言えませんが、少しずつでも症状は改善することを示すことができれば、同調される方が増えて、サポートは一段と充実していくことが期待できます。そのためには、ベースになる薬の進歩が不可欠です。どうか、なかなかよくならない患者さんを嫌がらずに、1人でも多く診てください。先生方の精神科医としての「血肉」になります。お好みの人だけ診ていては実力がつきません。

お忙しい中で、私の小精神療法をご活用いただけるのはありがたいことです。「1回の診察が5分程度でも」という特徴が、日本の現在の外来に適した方法と思われます。

お若い先生の中には、精神医療に携わるにあたってご自身の人生経験が足りないのではないかと悩まれる方もいるかと思います。しかし、人生経験が豊富であることが必ずしも良い精神科医師であるとは限りません。誰にでも「始まり」というものはあります。「フットワークの軽さ」という意味では若い時の方が「有利」です。まずは「ゆっくり」行きましょう。「手っ取り早く」とはいきません。2~3年ごとに振り返るくらいでよいでしょう。雑学も大事ですね。友人や先輩とのdiscussionもお忘れなく。とく生物学的研究論文にも関心を失わないことです。

そのうえで、外来のうつ病患者さんの1~2人をモデルケースとして「病後の生活史」を追っていただけませんか。治った後にもさまざまな問題が起きます。それぞれの問題をどのように乗り越えていくか、どうしたら患者さんを助けられるか、一介の臨床医にはどうすることもできません。しかし、一緒に悩むことは多少できます。「病気」のことを知っているだけ、彼(女)らより多少視野が広いと思っていただいてよいのではないのでしょうか。

私見ではありますが、薬が登場したことで現在では、私が「病後の生活史」を追い始めた当初に予想していたよりも、うつ病の症状を軽くすることができるようになっています。しかし、患者さんが十分に幸せかというと、もう少し助けを必要としているように感じます。それは「治す」というよりも「もう少し生き甲斐のある人生を」を保ちたいということでしょうか。

私は診察室の挨拶として、よく「ご家族は元気ですか。お婆ちゃんはどうしていますか。坊やは学校へ行っていますか。」などと尋ねます。これは人間としての幸福度を聞くためです。
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精神医学は常に2つのアプローチを持ちます。1つはそのほかの臨床家の医師と同じく「早く元気にすること」です。もう1つは長く診ることであり、そのために「病後の生活史」の形成に関心を持つことがひとつの戦略と思います。

補講の最後として、私の考えをお伝えしたいと思います。

私は、長い経験から、軽症うつ病のみならず、統合失調症さえも、丁寧に診続けていけば想定していた以上に良くなることが期待できると思います。長年診察を続けていれば、患者さんの自殺といった悲劇に遭遇することもあります。これだけは避けたい。しかし、難しい。長く診ているとそういうこともあります。

「長く診続けることに何の意味があるんだ」とおっしゃる方もいるかもしれません。しかし、精神疾患とはそういうものです。精神科医は、したがって「長く診る」のが普通です。「すぐに良くなる」ことはまれで、それはたまたまの幸運であり、例外的なことです。したがって、こうも言えるかもしれません。精神科医も内科や外科と同様に、今日では「早く良くする」ことが目標になったが、依然としてなかなか良くならない手強い相手がいて、今のところ薬を使いながら「長く診る」しかありません。これは、精神科のみならず、小児科や神経内科共有の方法でしょう。その中では精神科は多彩な可能性を蔵しています。今までの教科書はあまりに悲観論に傾きすぎたのではないでしょうか。薬という治療手段が加わった今日、もうちょっと楽観論に組してもよいのではないでしょうか? コメディカルが治療参画して下さろうとする今は、我々も少し楽観論に傾いても許されるのではないのでしょうか。ただし、決して手放しでの楽観論ではありません。随分長い間、苦闘してきた上での楽観論です。