あなたの隣人を愛しなさいとは、キリスト教聖書の有名な一節である。
私なりに考えたところを記したい。
通常、「汝の隣人を愛せ」といわれれば、「無条件に、その人があなたの隣人ならば、その人を愛せ」といった極端な意味ではないと考えるだろう。しかし、その人が、物理的にあなたの近くにいたら、無条件に、あなたはその人を愛しなさいという意味なのだと私は思う。
隣人が正しい人ならば愛するし、正しくない人ならば愛さない。常識的にはそう考える。
しかしそこにそこ間違いがある。
人は他人について、その人が人間として正しいかどうかを判定することはできない。
その判定ができると考えるところに、間違いの根本的な原因がある。
他人に対して、その人は愛するに値する、そしてこの人は愛するに値しないと判定するなら、愛とは遠い姿である。
(1)P(0)は隣人P(1)を愛する。
(2)P(n)はP(n+1)を愛する。
(3)以上から、すべての人類Pは愛し、愛される。
このような数学的帰納法が含意されている。
あなたの価値観に合う人ならば愛し、そうでない場合は愛さないというなら、対立が生まれるだけである。
しかも、未熟な判断のゆえに、対立が生まれる。
そのようなことはしないで、物理的に隣人であったなら、人格についての価値判断は中止して、その人を愛しなさい、そうすれば、数学的帰納法により、理想の世界が、魔法のように生じる。
そのような意味だと私は思う。
あまりに幼稚といえばその通りだ。あまりに理想主義的で世間知らずだと言えば、それもその通りだ。
しかしそうすることによってしか、愛も平和も達成できない。
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ゲーム理論などでは、多数のハトの中に少数のハゲタカがいれば、悪に蹂躙されておしまいだと教えている。
確かにそうだ。
だからハゲタカに対しては、ハトもハゲタカのようにふるまうしかないと教える。そしてハトによる集団安全保障体制を築けという。
ときどき戦争をして、そのたびに高潔な魂が滅びて、そうでない魂が生き延びる。
そのようなことがいつまでも繰り返される。
それしかないのだろうか。
隣人愛は、ハゲタカに利用されるに過ぎないのだろうか。
愛がハゲタカに打ち勝つには上記の無条件の隣人愛しかないと思う。