これまでの政治とはまったく違う土俵を作ろうとしている

善人は総理になれないか 小川議員の夢と山崎拓氏の即答

15年ぶりの再会

 その人は開口一番こう言った。「いやー、秋山さん、すみませんでした」。

 覚えてたんだ、15年前のこと。

 その人とは、小川淳也衆院議員。民主党、希望の党を経て今は無所属。この秋、立憲民主党と国民民主党の多くが合流するとみられる新党に参加する予定だ。

 私は彼が当選まもない頃に事務所を訪ねた。彼の選挙演説は理想を熱くひたむきに語り、涙なくして聞けない――と聞きつけたからだ。

 だが、彼はそういう薄っぺらなマスコミに辟易していたのだろう、私はものすごく邪険に扱われた(と、思えた)。ほんの少しだけ話を交わすと「忙しいのでまた連絡します」と言われ、「はい、近々お訪ねさせてください」と私は答えた。

 それっきり連絡はなく、私も行かなかった。

 彼も1年生議員で、取材対象としてどうしても話を聞かなくては困るというほどではなかったし(失礼)、政治家に邪険に扱われるのはしょっちゅうだし、永田町ではこういうことは珍しくない。彼は気になる議員の1人ではあったが、その後、縁がないまま15年が過ぎた。

 で、今回言われたのである。

 「あのときは連絡せずすみませんでした」。

 永田町ではこういうことは珍しい。約束を破られたほうは覚えていても、破ったほうがしゃあしゃあとしていることはよくある。

 ああ、この人は誠実なんだな、自分が気になっていたことには向き合わずにいられない人なんだ、と感じた。

「細野さんや小池さんを見ると…」

 なぜ彼を訪ねたかといえば、「君はなぜ総理大臣になれないのか」というドキュメンタリー映画を見たからだ。話題になったので知っている人も多いだろう。

 映画では愚直に誠実に政策を訴え、地元を回り、しかし「器用に立ち回る」ことができない彼の姿が映し出される。2017年の衆院選で、希望の党設立をめぐるごたごたの際には、「政治家に必要なのは誠意とか筋道とか人徳とかだと思っていたけど、細野(豪志)さんや小池(百合子)さんを見ていると、したたかさだけなのかと無力感に襲われる時がある」。

 映画の中で再三繰り返されるのが「政治家に向いていない」という言葉だ。本人からも、家族からも。「私に一番欠けているのは、つきあがるような権力への欲求、欲望。これは政治家として致命的なこと」「党利党益、目先のことに仕えよう、貢献しようと思わないと党で出世できない。そこは僕が正直関心がないところなんですよ」

 「政治家になりたい、ではない。ならなきゃ、なんですよ」「やるからにはトップをめざしたい」と初出馬時に語っていた割には、何が何でも政治の道でトップをめざす、という気迫が感じられない。

 映画に「泣けた」という感想も多かったが、私には彼が、良い人なのだけど、まるで黄色い帽子をかぶってランドセルを背負っている小学1年生のように思えた。まっすぐな理想を語っても、大人の行動ができない、みたいな感じ。善人は政治家として大成しないのだろうか、とも思った。

山拓さん「お人好しいない」

 政治とは、時に汚濁にまみれて人に言えないようなことをしながらも、でもその先にある理想に向かって進むものではないのか。なんかこの人、きれいすぎる――と思ってしまう私は、永田町取材歴20年超で、汚れてしまったのか。

 ちょうどそのころ、昔担当していた山崎拓・元自民党副総裁が久々に上京したというので会いに行った。映画を見て、ベテラン政治家に意見を聞いてみたいと思ったからである。

 善人だと政治家として大成できませんかね?

 私の突然の問いに、彼は即答した。「できない」

 「狐と狸の化かし合いだからね。お人好しは1人もいないよ」

 善人の政治家は魅力がないですか?

 「善人から魅力を感じる人は少ないでしょうね。昔から清濁併せのむ、ということがあるじゃないですか。清流に魚住まず、とも言うね。そもそも清流みたいな民はほとんどいないですよ。民自身が。権威主義も全体主義もそうだが、民意で動く」

 そして、私は小川議員に会った、というわけである。

「人々の利他心に火をつける」

 私は初めてまともに向き合った彼に、ぶしつけな質問を重ねた。

 政治家に向いていないというのなら、なぜ続けているのですか?

 偉くなりたいと思ったことはないと言っていたけど、政治家として偉くならなければ自分のやりたいこともできないのでは?

 政治家である以上、そして上をめざすなら、清い水に住み続けることはできないのでは?

 彼は語り始めた。彼の話は長い。わかりやすいキャッチフレーズ型や言い切り型ではない。丁寧に説明しようと、自分の中のもやもやもひっくるめて話し、必然的に長くなる(映画の中では、だから何なのと言いたくなる場面もあった)。

 「ものすごく考え、心理的にさまよいました。何のためにここにいるのか。意味があるのか。野党は期待されていない、しかもその野党の中でダメな自分。出世するのは器用な人が多い」

 「でも心のどこかで、そういう、要領が良くて器用で野心に突き動かされている人だけが動かす政界で良いのか?とも思う。納得できないんです。自分の子どもに所詮世の中は利害損得で、人なんか蹴落としていけば良いんだ、って言えるかなと。やっぱり言えない。これが最後の砦なんです」

 「悩んで苦しんで、孔子やソクラテスやプラトンを読みました。そこで言われているのは政治とは自己犠牲を伴うもの。本来そうあるべきだと。やっぱりそうか、自分と同じだと思ったんです。今の新しい時代に政治は対応できていないですよね。自分はそういう政治を変える、と言って(政治家を)始めたんだから」

 「有権者が求めるものが、利害損得や目先の利益なのか、それとも社会の公平さや透明さ、それにふさわしいリーダーなのか」

 「人々の自尊心や利他心に火をつけることができるのか。これらは可燃性じゃないから大変なことだけど、いったん火がついたら内燃機関のように燃え続けると思うんです」

政治家と有権者の新しい関係

 彼の話を聞いているうちに私は気がついた。この人は新しい政治、政治家と有権者の関係を作ろうとしているのではないかと。

 酸いも甘いもかみ分けた山拓さんの言ったことは政治の真実だと思う。でも、小川議員はそうではない、これまでの政治とはまったく違う土俵を作ろうとしているのだ、と。政治家に向いていない、というのは、これまでの政治家の姿に向いていないということなのだ。既存の他の政治家とこの人を比べることに意味はないのだ――。

 最後に聞いた。善人は政治家として大成すると思いますか?

 「善人という意味が、公平、公正、透明性、利他心、自立心、自尊心、公共心に働きかけるという意味なら、そういう人が大成する時代が来ないと日本の政治はよくならない。そういうリーダーシップがないと、日本は生き抜けない」

 そういうリーダーシップとは小川さんのことですか。

 「………私だと思う……けど……」

 ためらいながら、ところどころ言葉を切って考えながら、でもしっかりと彼は言った。

 「……それは見たことのない政治の風景です。政治家と有権者が信頼の絆で結ばれる初めての経験です。なぜなら政治が自己犠牲の上にたち、目先の利益を与えるものでなくなる。これは確信です」

 私は思った。

 この人は黄色い帽子にランドセルを背負ったまま、濁った水に入って人々を招き入れ、「みなさん一緒にここをきれいにしましょう。その過程は苦しいけれど、自分と一緒に悩み苦しみ考えましょう」と言って、自分が一番泥まみれになりながら、必死にもがいているのだ。それは新たなリーダーシップの形で、新たな政治なのだ。

 最近、ネットでライブ配信を始めたという。「初回は1人で3時間以上しゃべったんです」。生で2000人以上が見てくれたとか。

 「前は全くの暗闇でした。でも今、手応えといえるほどじゃないけれども、うっすらと一筋の光はなくはない」

この国は変わるか、それとも

 彼が果たして大成するのかどうか、私にはまだわからない。彼が言う「(日本の人口の)1億分の1の当事者意識に多くの人が行き着いたとき、この国は変わる」のか。それとも黄色い帽子のドンキホーテで終わるのか……。

 「また近々おたずねさせてください」と、私は事務所を後にした。

 今度は本当にまた訪ねたいと思っている。

 たとえ、連絡がなくても。

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