ドラマでよくあるシーンとして、
皿やガラスが割れると、それを片付けようとして必ず手を切って血が出る。
そのことによって人物の内面の動揺などを表現しているらしいが
まったく効果がないと思う。見ている人は、切るぞ、と思ってみていて、ああやっぱり切ったと思う。
また、まさに必要な情報をテレビで報道しているときに、そのテレビを途中まで見て、
必ずスイッチを切ってしまう。
普通は大事な情報ならば、どのように報道されているのか、最後まで聞く必要があるはずだが、それもできないくらいの気持ちであるとの表現なのだろう。
しかしこれもまた、効果がないと思う。
あるいは、自動車を運転しているときに、助手席の人をじっと見つめて、運転注意がおろそかになっている場面。それは、自動車の運転などよりも心の中では重要なことなのだと表現しているのだろうが、効果がないと思う。はらはらさせることでその数分を画面に引き付けたいのだろうが、表現手段として、古すぎる。
古い脚本や演出では、こんなにも不合理な行動をするくらい、その人物は心にショックを受けているのだと、不合理な行動を使うことが多かったと思う。現代ではそのような流儀は稚拙としか言いようがないが、若い人が初めて出会う映画やドラマであれば、許されるのだろう。
合理と不合理の差が、感情の大きさだと考えて、表現するらしいのだが、実際にはそんなことはないだろう。脚本家の頭の悪かった時代の話だろうと思う。
昔からの型があって、何分に一回は、暴力や性愛のシーンを入れるとか、その俳優の場合はそれは禁止とか、さらに、全員の出演者が全面的に撮影スケジュールに協力するわけではなく、大物俳優の都合が優先される。いろんな都合で話も少し訂正されつつ進行したりする。
まず最初に主役のスケジュールが取れましたと連絡が入る。昔で言えば、役所広司とかジャニーズさんとか。そして、それに合わせてスケジュールが組める女優さん、脇役さんが決まり、それをどう使って組み立てるか脚本シナリオが動き、お金を出してくれる会社にどう配慮するか決まりもあり、さっさと撮影して、そのあとでビデオをいじって、つじつまを合わせる。というような話を30年前くらいに聞いたことがある。