能の基本形・あったことをなかったことにはできない

能の基本形について思った。

私の知っている夢幻能の一部を考えてみると、夢幻能の基本形は多分、悲劇的体験により、この世に未練があり、成仏しきれない霊魂が登場し、体験を語る。もちろん、体験の全部を消去できるわけでもないし、結果を改善できるわけでもない。しかし、霊魂は、この体験の全体が、なかったことにされるのは承服できない、せめて、この体験が実際にあったこととして記憶されたい、と希望するのだろう。話を聴く者が体験を理解し、成仏を願うことで解決する。

一般に、個人の体験は伝承されることもなく忘れられてしまう。歴史としての事実は権力者によって書き換えられてしまう。全てはなかったことにされてしまう。

それではとても成仏できない。

能として観客の前で演じる形になれば、聴き役が体験を理解するだけではなく、観客が理解することになり、その点でも、観客が証人となり、体験がなかったことにはされないということになる。霊魂の慰めになる。

観客のそれぞれは、自分の個人的悲劇に関しても、事実が消去され忘却されるわけではないのだと一時の慰めを感じる。

今となっては訂正もできないが、せめて、なかったことにはしないでほしい。そして体験を理解し共有する。これは精神療法の基本形だろうと思う。

能は歴史的にみると、足利義満が世阿弥を保護し、秀吉が愛好し、徳川幕府も保護した。舞台衣装や楽器、道具など高級品がそろえられ、宮中では雅楽が、武家政権では猿楽が公式の儀式となったと解説にある。その点からは、権力者の道具となっていたわけで、権力者によって歴史が書き換えられてしまうことへの抵抗という観点は成立しないように思う。

結局、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では神様は知っている、司馬遷の歴史観では天は見ている、などと超越的なものを考えるしかなくなる。宗教的な習慣としてそのように自然に考えられるならそれもいいと思うが、現代科学の観点からは肯定しにくい。なんとなく結論は出ないまま、忘れて暮らしているのが実情だろう。

日本の昔の人は、神がすべてを知っているから問題ないとか、天はすべてを知ってているから心配しないでもいいなどとは考えなかった。天網恢恢疎にして漏らさずなどの言葉はあったものの、誰も信じているわけではない。人への恨みであるが、人間に絶望し切らず、人間に理解して記憶してほしいと願ったのだろう。その点では超越的ではなく現世的である。

命が終わる、自意識が終わる、という現実をどのように受け入れるか。

伝統的宗教を周囲の人たちと共有していられるならそれもいいと思うが、そうではない人たちもいる。その場合は、どのように考えても、納得しがたい。

夢幻能の様式では、魂はもちろん、実際的に有効な解決を要求するわけではない。例えば誰に頼んでどのようにして復讐してほしいとか依頼するわけではない。どこに証拠があるからそれで裁いてほしいとかいうわけでもない。ただ聞いて理解してほしいのだ。

それが劇の上では話す霊魂と聞く現実の人間がいるだけであるが、夢幻能の型を取ることで聴衆に共有される。あったことはあったことに、なかったことはなかったことに、人々を証人として、現実の側に差し戻される。そして石に刻まれるように記憶される。