リテラシーの低い視聴者に劣等感を抱かせない。リテラシーの高い視聴者は、作品の奥行きを堪能できる。どちらの観客も満足させる作品づくりが求められている。

映画とドラマにおける説明過剰について

アマゾンプライムビデオなどで大量配信される映画やビデオは、
業界の在り方を変化させている。
最初の数分程度で視聴者の興味をひかないとすぐにほかの作品に移動されてしまう。
まず面白いところを提示してひきつける、人物の背景などは後回しでもいい。

製作者が見せたいものを提示していては、視聴者は見てくれない。
視聴者が見たいものを見せないと、営業側も納得しない。

映画やアニメはゲームや玩具と連動していることもあり、
そちらからの圧力もある。

「短時間で面白い」「瞬間的に笑える・驚ける・泣ける」
「冒頭から面白くないと視聴者がついてこない」

製作者としては、すでに作品数が膨大すぎて、何か付け加える余地はないように思えてしまう

『おもしろくない』『わからない』という視聴者の感想が制作側に届きやすくなった
視聴者は自分のリテラシーの低さを考えず、『わかりません』と明確に主張する
当然、分からない人は多数になる
その人たちにもアプローチするには『説明しすぎ』の映画とドラマになる
セリフで説明しすぎる。あるいは独白を多用する。
制作側としては抵抗があるが、いつか妥協してしまう。

「口では相手のことを『嫌い』と言っているけど本当は好き、みたいな描写が、今は通じないんですよ」

製作委員会が「わかりやすくしろ」と言う
説明セリフの多い作品が20年前、30年前と比べて圧倒的に増えた
『多少おもしろくなくなってもいいから、わかりやすくしてくれ』というオーダーなら多少はわかるけれども、『面白さよりまずわかりやすさだ』というなら困惑する

全部説明しちゃったら、観ている人の思考がそこで止まる
説明セリフを求める人は、映像作品の視聴時に「行間を読んで思考を働かせる」という発想が、そもそもない

当然、観客によって受け取りかたはさまざまになるけど、それでいいんです。受け手には“作品を誤読する自由”があるんだから。誤読の自由度が高ければ高いほど、作品の奥が深い。

セリフで全部説明してほしいタイプの観客は、不親切だと怒り、不快感をあらわにする。
そうだろうな。そしてそのような人たちに向けて、ざっくり説明するのがうまい人もいて、それはそれで技術です。

全員が全員ではないけれど、やっぱり観客が幼稚になってきてるんだと思う。楽なほうへ、楽なほうへ。全世界的な傾向だよね。全部説明してもらって、はっきりさせたい。自分の頭が悪いことを認めたくない。だから、理解できないと作品のせいにする

「昔よりも観客が幼稚化したから、作り手はそれに合わせて説明過多の作品を量産するようになった」

20年前、30年前にも、“幼稚な観客”はたくさんいたはずだ。しかし当時は、彼らが「理解できないことを作品のせいにする」手段が、世の中に存在していなかった。

TwitterをはじめとしたSNSが誕生・普及したことで、どんな人もわけ隔てなく、無料で気軽に、作品の感想をつぶやけるようになった。

もっとも言いやすいのが、「わかんなかった(だから、つまらない)」だ。論理的な説明やエビデンスがいらない。「バカでも言える感想」

かつては可視化されていなかった“幼稚な観客”、あるいは“思考を止めている観客”でも言える程度の感想が、不特定多数に向けて爆発的な拡散力で可視化されるようになった。そこに相応の人数が同調し、まとまった数になって製作委員会や制作スタッフの目に飛び込めば、彼らがその“民意”を完全に無視することはできないだろう。結果、「わかんなかった」と言われることを恐れるあまり、脚本の説明セリフが多くなっていく。

「作品に賛同するよりも、クレームを言うほうがマウントを取れます。“こんなわかりにくい作品をつくりやがって”と憤ることで、被害者になれる。しかも被害報告はネット上で賛同を得やすい」

SNSの誕生によって、どんな民度の人間も、事実上ノーコストで、ごく気軽に「被害報告」を発信できるようになった。それが、多くの人に「わかんなかった(だから、つまらない)」と言われない、説明セリフの多い作品を生んだのではないだろうか。

テレビ番組はテロップだらけ

長回しの意味深なワンカット映像や、セリフなしの沈黙芝居から何かを汲み取れと言われても、戸惑うしかない。

セリフのないシーンに意味を見出すことができなくても、人間は生きていける。善悪ではない。ただただ、そういうことだ。

「わかりやすさ」と「作品的野心」の両立が求められるし、両立できる

もしリテラシーの低い視聴者がドラマの背景にあるテーマを十分に汲み取れなかったとしても、排除された気分にはなりません。ドラマはちゃんと楽しめる。そういうふうに、脚本が書かれている。

リテラシーの低い視聴者に劣等感を抱かせることなく、リテラシーの高い視聴者は、作品の奥行きを堪能できる。どちらの観客も満足させる作品づくりが求められている。
「リテラシーが低い人を差別しない」「みんなに優しい作品」こそが「良い作品」

とはいえ、どのレイヤーの人間も満足させる作品づくりには、途方もない、とてつもない創作労力が必要とされる。

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お医者さんが病気の説明や薬の説明をするときもそうなんだろう。

ネットにあふれている病気や薬や治療に関する変な話をどう扱っていいのか、疲れる話だ。

目の前にいる患者さんの理解が低いと言っていてもそれで理解が高まるわけではなく、ただ目の前のお医者さんに対しての不信感が発生するだけで、ネットに出ている情報を疑うには至らないだろう。

かといって、あいまいに妥協するのも、専門家として疑問がある。

薬の話は、製薬会社が大金を投入して宣伝している場合も多く、それを『無邪気に』引用して正しい情報として伝えているサイトも多い。10年くらいして特許が切れれば、だいたい真実が言われ始める。製薬会社のほかにも真実をゆがめる勢力は多々存在していて、もうどうしようもないので誰の悪口も言わないことにしようと決めた先輩もいる。

この場合の適者生存の戦略は、患者さんが信じていることに寄り添うことなんだろう。
またそうしていれば、いつか信頼が生まれ、ネットや出版物やテレビよりも、そのお医者さんを信じてくれるようになるかもしれない。
分かっていない人にも優しく正しく説明できればいいなあ。