個人と集団と宗教

キリスト教にしても民主主義にしても社会主義にしても、集団を形成して活動するようになると、本来の理念とは別の、土着の集団原理が支配するようになる。そこまでは輸入しきれない。そこまでは真似しきれない。教育しきれない。どんな理念のもとに集まったとしても、結局日本人の集団になってしまう。
だから、キリスト教では無教会主義などが発生した。
神との関係のみにおける信仰。神からの啓示と人間からの祈り。それだけでいいというのがキリスト教の一面である。孤独な隠棲者はそれができる。
そこから他者とのかかわりを考えると時にいろいろな無理が生じるが、他者とのかかわりを考えないでは俗世を生きてゆくことはできない。

夏目漱石などにしても、西洋を研究する立場としては、西洋文化の基本に浸透しているキリスト教の精神をどう受容するかは大きな問題だったはずであるが、それほど悩んでいるようには見えない。ものの考え方の基礎として宗教があることは西洋文明の特質である。

極端に言えば、隣人と人間関係を形成するときにも、具体的な隣人との直接の関係ではなく、いったんそれぞれの人が神との関係を意識し、そのうえで、神を仲介者として立てて、隣人と関係を結ぶ気分がある。かなり極端であるが理念的にそのように語っている昔の人もいるし、それを引用して現代で語る人もいる。
個人の尊厳の確立とか、集団主義ではない個人主義とか、根本にはキリスト教の考え方があると思う。根本を涵養しないで、花と実だけを輸入しようと思っても無理だろう。