我々は今どのような歪んだ情報空間に生きているのか。

我々は今どのような歪んだ情報空間に生きているのか。
人間は、自分の置かれた情報環境がどのように歪んでいるかを、どのようにして知ることができるだろうか。
つまり、自分が妄想に侵されていないか、洗脳されていないか、プロパガンダに踊らされていないか、どのように知ることができるかという問題である。
結論を先に言うと、非常に難しい。理性では解決できないのかもしれない。やや過剰な猜疑心や臆病さを維持する必要があるのかもしれない。懐疑主義といってもいいだろう。いつも、自分は間違っているかもしれないと自省してみる必要があるだろう。勇ましい話を聞いたら、ひょっとしたら怪しいかなと思ってみないといけない。
自分のことはわからないが、他人のことならよく見えるというのも実際にそうである。岡目八目。問題は、どのようにして部外者になれるかということ。いかにして局外者の立場をとることができるかという問題である。自分は外部に立ったと錯覚しても、実際は内部にとどまっているのかもしれないのである。厳密に思考するとか、反対のことを想定してみるとかとしても、そうしたこと自体が、妄想や洗脳やプロパガンダの内部であるかもしれないのである。外側に立ったつもりが、内側だったという可能性について考えること。さらに恐ろしいことに、そのような可能性を考えること自体が、内側の立場である可能性。

現在の自分を思ってみると、アメリカのある場所にプロジェクターがあり、日本全体あるいは日本語全体がスクリーンとなり、アメリカのある種の人たちが日本人に見せたいと思っている情報により、四六時中満たされている、そんなイメージである。あるいは、ラジオからボイス・オブ・アメリカ・日本語放送だけが24時間流れている感覚。あるいは大本営発表が次々に流れる状態。我々はただそれを見て聞いて洗脳されるだけ。長い間に脳に麻酔がかかり、スクリーンに映るもの以外は想像できなくなってしまう。そのほかの可能性を想像できなくなってしまう。頭が固まってしまうのだ。

では「本当の現実」はどのようにしてみることができるのか。
「とぎれとぎれの知覚」+「脳回路」=「現実把握」
と現象学的理解を書いたのだが、
「とぎれとぎれの知覚」の部分は支配され、
「脳回路」の部分は固まってしまっているとしたら、
どうしても現実把握は、誰かの見せたいものだけになってしまうだろう。
「脳回路」が柔軟性を回復したとしても、「とぎれとぎれの知覚」の部分が支配されていたとしたら、
それ以外の世界を想像することができない。

しかしながら、支配も完全ではないだろう。ほころびがあるだろう。矛盾を呈することもあるだろう。うっかりしていることもあるかもしれない。
そんな時に、しっかり理解できるかどうかが問題である。
というのは希望的観測でしかないのだろう。
やはり悲観的にならざるを得ない。

妄想や錯覚や思い違いを訂正するには原則として数学や論理学が役に立つのだが、いま現実にある洪水のような宣伝には対処しようがない。
有効だから資本を投下して宣伝しているし、効果があるから続けている。
人間の脳はそのようにできている。

外側に立つということが難しいとしたら、時間をずらしてみることはできないかとも思う。過去に立つ、未来に立つ、そのように想像力を働かせることはできないか。
また、スクリーンの真ん中と端っことでは違うのではないかと検分してみる。その意味で沖縄とかむつ小川原とかを観察してみることは大切だと思う。
何か有効な工夫はないものかと思う。