グローバル化で倫理感情は共有できない。しかし法と契約は共有できる。

グローバル化で倫理感情は共有できない。しかし法と契約は共有できる。
会社のCEOが20億円とかもらって、社員は400万円で働いている。ここのところで心の痛みを感じないだろうか。倫理感情はどうなっているんだろうと思う。創業者利益はさらに莫大である。
しかしグローバル時代になって、どのように倫理感情を共有できるというのか、そこに困難がある。会社で働く人々に対して倫理的感情を共有することができない。
一方で、契約主義的な経済関係は、グローバル化しても通用する。だから、「最初からそういう契約で仕事しているはずだ、いやならやめればいい。自分で起業してやってみたらいいじゃないか」と言われてしまう。取り換え可能な労働力でしかない。
ある程度小さな共同体であれば、各人の人となりというものも見えていて、来歴、現在、家族なども見えている。共同体として共有している感情もある。そんな中で、自然な形での倫理感情が発生する。その場合に、「気に入らないからといってそんなことしたらダメ、そんなことをしたら集団からの制裁が下る」という社会と、「うっかりしていてそんなことされるほうが悪い、普段から気を付けないほうが悪い」という感覚の社会とは、グローバル化したときに共通の倫理を持つことができないから、仕方なく、倫理感情はあきらめて、共有できるほうの、経済合理性と契約を採用するのだろう。
この場合、経済合理性と契約の基礎になっているものは表面的には相互理解とか互恵関係とかなのだろうが、実質は、経済的優位と軍事的優位である。