「人間を信じる」吉野源三郎。岩波現代文庫/社会223、2011。

「人間を信じる」吉野源三郎。岩波現代文庫/社会223、2011。
吉野はずいぶん勇ましいことを書いていて驚く。進軍ラッパを吹いて、兵隊に突撃させようとする気分のようではないか。君が人民のために死ぬならそれで本望ではないかとの気分が何となく伝わってくる。一言で言って勇ましい。
人間の命が大切なのは基本である。命を守るためには集団を守らなければならない。集団を守るためには君たちは命をささげても本望だろう。気分の根底にそのような矛盾を含んでいるような気がする。
しかしそれも無理はないと思われる。当時の政府方針に対抗する形で学者を組織し論壇をリードしたのだから。そのことが労働組合や革新政党を動かしたこともあった。当然、大衆のリーダーとしての感覚になるのだろう。仕方がない面もある。
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大衆から離れたところで若い活動家たちによって交わされる理論闘争は、ともすれば、どっちがラディカルな立場であるかの競争になる。分裂を賭しても、徹底的な革命の主体を作ることが優先的な課題とされ、徹底的に革命的な理論や意識を持つことが、そのまま主体の形成と考えられやすい。ここから生まれる極左的偏向に対しては、大衆というフィードバッグがないから、ゆくところまでいって、痛ましい失敗にぶつかる以外にそれを止めるものがない。そして失敗は、ついて来ない大衆への絶望となり、あたかも革命運動が大衆のためにあるのではなく、大衆が革命運動のためにあるかのような錯覚に陥る。そればかりではない、同陣営内の対立・抗争・分裂に伴う独特の深い怨恨というものがある。憎悪が本来の敵よりも、背いていった仲間に向かって深くなる。そのような傾向が、苛烈な政治闘争の内部に生じやすいことは、私の見てきた限りでも、その実例が少なくないのである。

このように書いていて、これはどの集団でも見られる傾向だろうと思う。左翼、労働組合、右翼、暴力団、犯罪集団、宗教団体、スポーツ集団、軍隊など、いずれでも起こっていることだろう。

大衆という言葉もなんだか独特な響きを持っている。

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吉野による学生運動の話。
東大構内で学生と機動隊が衝突。学生は傷つけられ連行された。
そもそも学生運動の考え方は、この日本の社会の中で東大出身者の持つ特権を拒否し、根底から打破しようとするものだった。学生たちはその特権を打破するためには、暴力しかないと考えていた。
一方、機動隊の若者たちは、上の命令で暴力をふるっていた。機動隊の若者は東大の特権の下積みとして存在している。
学生は社会を改革しようとして、この社会構造の被害者であり救済されるべき人たちの一部である機動隊の若者を攻撃している。
機動隊の若者は、自分たちのような被害者の立場にある者を救済しようとしている学生を攻撃している。
このような悲しい状況が出現していた。

もちろん、動機に同情すべきものがあるとしても、方法として適切であったのかどうか、問題はある。
また、憲法で軍隊を持たないと宣言している考え方と、改革に暴力を用いる考え方と、両者の間で深い検討はあったのかとも思う。彼らは、原理的に、暴力行使以外には打破できないのだというのだろうけれども。
しかし一般市民からみれば、支配者が入れ替わるだけで、税金は変わらないし生活は変わらないのである。
理想実現欲求や権力欲求の巻き添えにされるのは庶民である。迷惑この上ない。
そのような志があるとして、その先どうするか、熟慮が必要であった。

他人に命令したい人が多くて困る。