詰め込み教育について

詰め込み教育について、戦後のGHQによる教育改革の時にも、戦前の詰め込み教育がよくなかった、これからはゆとりで自発的学習を引き出す方向だとの議論があったと記録にある。
詰め込みとゆとりの振り子運動は昔からあったことが分かる。
識字率などの指標でいうと、日本の教育は立派な成果をあげていて、その点では問題ない。そのことからGHQも何となく納得したらしい。
教育については、平等主義と、エリート教育の妥協点をどこにするかも政治として課題になる。
無理させないで自発性を引き出す、教員もゆとりを持つ、という環境ならば、底辺の引き上げには役立つ。落ちこぼれを防ぐことができる。
一方で、エリートを選抜し、早期教育してゆく考えも、社会の要請としてある。漁村ならば誰かがクジラを仕留めてくれれば、みんなに分配がある。
全体の平均点を上げることとトップエリート教育の一層の充実とはあまり矛盾しないと思うが、教育論議としては、トップエリート教育は各個人がやればいいということらしく、全体の水準をどのあたりに設定するか、落ちこぼれを少なくするか、平均点を上げるか、そのあたりが問題になる。そこで、詰め込みとゆとりの振り子運動が発生する。振り子でいいのではないかとも思う。
トップエリート教育というが、これは簡単ではない。卓球の素質のある子どもを選抜して早期教育して、日本の卓球は強くなった。フィギュアスケートなどもそのような教育の仕方が確立している様子だ。技術系トップエリートの教育はできるかもしれない。早いうちにコンピュータ関係の素質を検査して選抜し教育すれば、現状で次々に失敗している国家IT戦略を立て直すことができるかもしれない。官僚についても技術的な側面からはそのような教育ができるのかもしれない。しかし政治家、哲学者、思想家、文学者についてはそうでもないだろう。理系科目については早期教育はできるだろうけれども、コンピュータ技術者ほど明確な効果は期待できないような気がする。人文教育の基礎が大切かと思う。
むしろ、18歳から24歳程度で才能を示している人材がアメリカや中国に囲い込まれていることが国家戦略としては問題だろう。お金があれば解決できる問題だと思うが、お金がない。アメリカへの遠慮もある。

東京で全国の教育の議論をしても、実際には、中央と地方の教育の現実には大きな格差がある。これも問題である。今後は東京の教師の授業の動画を地方の生徒が視聴して、そのうえで、地方ごとに教育するという感じになるのだろうか。