『職業としての編集者』吉野源三郎、岩波新書1989年。
いい本だった。
なるほど、こうして読んでみると、社会の中核を形成するのはこういう立派な人たちなんだなと納得できる。
一方で、『日本の狂気誌』に記されているように、世間の主流から外れて、自由な境涯で生きる人もいる。それぞれ個人の本来の性向があるのでそれも仕方がない。
『職業としての編集者』の文章で感じたことであるが、時代の流れを作るような人たちは、理論が優れているとか、文章の感覚がいいとかだけではなく、人間と人間として向かい合った時の感化力というか影響力というか、あるいは圧倒する力というか、最近の言葉でいうマウントする力といってもいいのだろうか、ボス的力というか、あいまいだけれども人間力と言えばいいのか、あるいは一面では誠実さともいえるし、熱ともいえる、そういうものが優れているのではないか。歴史の流れを決めるのはそのような人たちの力なのではないかと思われる。
勿論、著者の目指す民主主義の理想はそのようなものではない。しかし著者の体験してきた現実の世の中はそのように動いていると見える。
個々の人間が進化して判断力に優れた人間となり、教育も行き届いたときに、民主主義のよい面が発揮される。そこに至る途中経過では、衆愚政治となり、容易に熱狂に巻き込まれ、金持ちの宣伝に乗ってしまう、目立つような極端さに流されてしまう、そのような現実がしばらく展開するのだろう。
それも歴史の必然である。人間の脳がもう一段進化しなければどうしようもない。
このような、どうしようもないとの考えは世捨て人の考えである。そうではなくて、吉野源三郎のように世界の苦しみや矛盾や悪弊の解決を、長い目で正当な方法で目指す人が多く出てほしいものだ。
スーパーマンは正しい目的を正しい方法で実現する。バットマンは正しい目的を悪い方法も使って実現する。どちらが良いかという問題がある。
吉野源三郎の場合は、正しい目的を正しい方法で実現するスーパーマン方式である。
その場合は、目的を達成する途上であっても、正しい方法で生きていることが、すでに達成なのである。
それが倫理的生き方である。