『アウトサイダー』コリン・ウィルソン、中村保男訳、集英社文庫、原著1956。

『アウトサイダー』コリン・ウィルソン、中村保男訳、集英社文庫、原著1956。
当時は実存主義的雰囲気だったのだろう。この本では実存主義哲学の雰囲気が基調となっている。
著者は精神病理学を勉強していないようで、フロイトには言及があるが、ドイツ精神医学やフランス精神医学には言及がない。ドイツ精神医学を基礎にして分析すれば、もっと明快な主張ができたのではないかと思われる。
ずっと昔、この本を読んだときはとても面白いと思った。そして、そのあと、続アウトサイダーとか関連の本を読んだと思う。それで印象が混じり合っているのかもしれないが、今回読んだ印象としてはあまり面白くなかった。なぜこんな差が生まれたのか、不思議な感じがする。前半があまり面白くなかった。後半のドストエフスキーのあたりからピントが合ってきたと思う。
この本ではなく、『続アウトサイダー』とか『宗教とアウトサイダー』などを読んで面白いと思ったのかもしれない。
今から思うと、引用している著作のそれぞれは多面的なものを含んでいるが、この本の中では、ひとつの切り口で強引にまとめているので、著作の紹介としてはやや一面的だと思う。
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あるとき、雌虎が一群の山羊を襲った。餌食に躍りかかったとき、この虎は子を産んで死んだ。遠くから漁師が発砲したのである。子虎は山羊に交じって成長した。山羊が草を食べるのを見て、子虎もそれにならった。山羊はメーと鳴くので、子虎もメーと鳴いた。こうして子虎は大虎になった。ある日のこと、野生の虎が山羊の群れを襲った。野生の虎は草を食う虎を見て、仰天した。追いかけて捕まえると、山羊の群れの虎はメーメー鳴いた。野生の虎は相手を水際に引っ張っていった。「水に映った自分の顔を見ろ。俺の顔と全く同じじゃないか。肉を食え。虎らしく吠えろ。」

生活に追われて忙しく生きている人間は、覚醒するのは難しい。
人間には「より充実した生命」に目覚める可能性が秘められている。可能なのだ。

人間は日常を生きるにあたり、離人症に例えられる状態を生きている。
しかし覚醒して、生き生きとした人生の感覚を取り戻すことが可能である。
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私の現在の考えでは、なにもこうした覚醒をありがたがることはないと思う。覚醒したからと言って現実が変わるわけでもない。食料が増えるわけでもない。支援者が増えるわけでもない。
覚醒の体験は離人症の逆で、存在感や意味がぐっと前面に出てくる。時間遅延理論でいえば、遅延の逆で、先行が起きているのだが、そのこと自体にたいして意味があるわけでもない。ただ脳内でそういうことが起こっている、それだけのことだ。
たとえば夜尿症で、気になってノイローゼになるのは困るけれども、覚醒して、何か意味付けを変更したとしても、夜尿自体は変わらないので、覚醒に何か大きな意味があるわけでもない。
こうしたことに関心を持てるのは若いころなのではないだろうか。年を取れば病気だとか貧困だとか人間関係とかでそれどころではないというのが実際である。